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ハイセイコー
通算成績22戦13勝
生年 1970(昭和45年)毛色 鹿毛性 牡
全成績
主要戦績(抜粋)・新しい順| 年月日 | 着順 | レース | コース | 人気 | 騎手 | タイム | 映像 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2 | 八大競走有馬記念 | 中山 芝2500 | 2人気 | 増沢末夫 | 2:35.8 | — | |
| 2 | オープン | 東京 芝1800 | 増沢末夫 | 1:50.0 | — | ||
| 4 | 重賞京都大賞典 | 京都 芝2400 | 増沢末夫 | 2:30.3 | — | ||
| 1 | 重賞高松宮杯 | 中京 芝2000 | 1人気 | 増沢末夫 | 2:00.4 | — | |
| 1 | 重賞宝塚記念 | 京都 芝2200 | 1人気 | 増沢末夫 | 2:12.9 | — | |
| 6 | 八大競走天皇賞(春) | 京都 芝3200 | 増沢末夫 | — | |||
| 1 | 重賞中山記念 | 中山 芝1800 | 1人気 | 増沢末夫 | 1:52.1 | — | |
| 9 | 重賞アメリカジョッキークラブカップ | 中山 芝2400 | 増沢末夫 | — | |||
| 3 | 八大競走有馬記念 | 中山 芝2500 | 1人気 | 増沢末夫 | — | ||
| 2 | 八大競走菊花賞 | 京都 芝3000 | 1人気 | 増沢末夫 | 3:14.2 | — | |
| 2 | 重賞京都新聞杯 | 京都 芝2000 | 1人気 | 増沢末夫 | — | ||
| 3 | 八大競走東京優駿(日本ダービー) | 東京 芝2400 | 1人気 | 増沢末夫 | 2:28.7 | — | |
| 1 | 重賞NHK杯 | 東京 芝2000 | 1人気 | 増沢末夫 | — | ||
| 1 | 八大競走皐月賞 | 中山 芝2000 | 1人気 | 増沢末夫 | 2:06.7 | — | |
| 1 | 重賞スプリングステークス | 中山 芝1800 | 1人気 | 増沢末夫 | — | ||
| 1 | 重賞弥生賞 | 中山 芝1800 | 1人気 | 増沢末夫 | — | ||
| 1 | 重賞青雲賞 | 大井 ダート1600 | 高橋三郎 | 1:39.2 | — | ||
| 1 | 白菊特別 | 大井 ダート1600 | 高橋三郎 | — | |||
| 1 | ゴールドジュニアー | 大井 ダート1400 | 福永二三雄 | — | |||
| 1 | 秋風特別 | 大井 ダート1400 | 福永二三雄 | — | |||
| 1 | オープン | 大井 ダート1200 | 福永二三雄 | — | |||
| 1 | 新馬 | 大井 ダート1000 | 辻野豊 | 0:59.4 | — |
血統
金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ| 父チャイナロックChina Rock | ロックフェラRockefella |
| メイウォンMay Wong | |
| 母ハイユウHaiyu | カリムKarim |
| — |
旅程 — この馬の物語
地方・大井から中央へ。第一次競馬ブームを巻き起こした、日本初の国民的アイドルホース。
新冠の一番馬
1970年3月6日、北海道新冠町の武田牧場に牡の鹿毛が生まれた。生まれたときから馬体が大きく、脚も蹄も逞しい。牧場の人々は赤飯を炊いて誕生を祝ったという。 場長の武田隆雄は、当歳のうちからこの馬を中央でも通用する器だと見ていた。ダービーに勝つとまでは言わない、ただダービーに出られるだけの素質はある。その夏から、武田は周囲にそう言って回るようになった。新冠では「一番馬」と呼ばれた。 母はハイユウ。南関東の地方競馬で16勝を挙げ、三度レコードを出した牝馬である。祖母ダルモーガンは1952年に輸入されたいわゆる豪サラで、その仔にはCBC賞を勝ったショウゲツもいた。半兄には東京ダービーで三着に入ったハクセイコーがいる。母の名の「ハイ」と、兄の名の「セイコー」。この馬の名は、その二つを並べた形をしている。 父チャイナロックは、この馬が生まれるまでにタケシバオー、メジロタイヨウ、アカネテンリュウという三頭の八大競走勝ち馬を送り出していた。血の裏づけは十分にあった。のちにこの馬は「野武士」と呼ばれることになる。だが生まれは、野に育った雑草ではない。 ただ、母ハイユウを持っていた(株)王優の代表・青野保は、地方の馬主資格しか持っていなかった。だからこの馬は、中央の調教師から誘いを受けながら大井へ行く。1971年9月、母を管理していた大井の伊藤正美厩舎に入った。
大井に、怪物が現れた
1972年7月12日、大井競馬場のダート1000メートル。鞍上は辻野豊。ハイセイコーはこの一戦を59秒4で走り、二着に8馬身をつけて勝った。大井のコースレコードである。従来の記録はヒカルタカイの1分0秒3で、この競馬場で1000メートルを1分より速く走った馬は、それまでいなかった。辻野は後年、あまりの速さに三、四コーナーでは馬体が傾き、バランスを取るので精一杯だった、追うどころではなかったと振り返っている。 二戦目から四戦目までの手綱は福永二三雄が取った。高知の福永四兄弟の次男で、兄は中央の福永甲、弟は福永洋一。のちに騎手となる福永祐一の伯父にあたる。二三雄は三度乗って、三度とも勝った。二戦目はおよそ16馬身の逃げ切り、四戦目のゴールドジュニアーではダート1400メートルのコースレコードを更新している。 晩秋の白菊特別と青雲賞では高橋三郎が乗った。高橋は馴致のころからこの馬に跨っていて、同じ年に生まれた馬たちとは大人と子供ほど体格が違うと感じていたという。青雲賞の1分39秒2が重賞初制覇のタイムで、この時計はレース名がハイセイコー記念と改まってからも長くレースレコードとして残った。 大井の六戦は、すべて勝ち。二着につけた着差の合計は56馬身、平均すると9馬身を超える。スポーツ紙が書きはじめた。大井に怪物が現れた、と。
五千万円 ― 越えられた金網
1973年1月12日、ハイセイコーはホースマンクラブに五千万円で売られた。その年の東京優駿の優勝賞金は三千六百万円である。馬一頭の値が、日本一のレースの賞金を上回った。当時、地方から中央への移籍は四歳の秋以降が普通で、四歳になったばかりの移籍は珍しかった。四日後、東京競馬場の鈴木勝太郎厩舎に入る。 手綱を任されたのは増沢末夫。1937年、北海道大野村の生まれ。中学を出てそのまま鈴木厩舎に入門し、のちに師匠の長女を妻に迎えた男である。1967年にアサデンコウで東京優駿を勝っていた。重賞の初勝利がダービーという、変わった履歴の騎手だった。 移籍初戦は3月4日の弥生賞。中山には朝から人が集まり、12万3000人が入った。パドックに五百キロを超える馬体が現れるとどよめきが起こる。発走前、パドックからコースへ移る道すじでは、人の圧に耐えかねた客が金網を乗り越えてコース内に入りこむ騒ぎまで起きた。 目の前を通るたびに歓声が浴びせられ、ハイセイコーは激しく入れ込み、汗を流した。それでも単勝1.1倍の支持に応えて勝つ。増沢は騎手になって初めて、人気というものの重さを感じたという。中二週でスプリングステークスも勝った。陣営は内容に満足していない。それでも連勝は八に伸びた。
重馬場の皐月賞
4月15日は雨だった。中山の芝は重馬場になる。芝の重馬場は、この馬が初めて経験する条件である。こなせるかどうか、専門家の見方は割れていた。 好スタートから七番手。増沢は向正面で、馬が馬場を苦にしていないことを感じ取っている。三コーナーで先頭に立った。四コーナーで進路が外へ逸れ、いったん二番手に下がる。すぐに立て直して、また先頭。二着カネイコマに二馬身半をつけてゴールした。 地方競馬からの移籍馬が皐月賞を勝つのは、中央競馬では初めてのことだった。 この日を境に、ハイセイコーの名は競馬の外へ出ていく。競馬雑誌でもスポーツ紙でもない誌面に、この馬が載るようになった。三冠は確実だ、日本競馬史上最強だ、シンザンと肩を並べる——そういう言葉が、決まったことのように流れはじめた。
十六万九千百七十四人
次はダービーである。だがハイセイコーは東京競馬場を走ったことがなかった。初めての場所では周りを探りながら走る癖がある。多頭数のダービーでそれをやれば、馬群から抜け出せないまま終わりかねない。鈴木勝太郎は迷った末、トライアルのNHK杯を使うと決めた。ローテーションが厳しくなるのは承知の上だった。 5月6日、東京競馬場に人が押し寄せた。午前十一時前には、国鉄と私鉄の駅に、東京競馬場へは入場できないという掲示が出た。入場者は16万9174人。中央競馬の最多記録である。この数字が破られるのは、1990年のダービーまで待つことになる。単勝の支持率は83.5パーセントに達し、単勝も複勝も百円の元返しになった。 レースでは終始インコースに閉じ込められた。増沢は三着までを覚悟したという。残り二百メートルを切ってから鋭く伸び、ゴール手前でカネイコマをアタマ差捉える。直線でいちどは負けたと思った、と増沢はレース後に漏らしている。 勝ってしまったことで、ダービーの勝利はファンにもマスコミにも既成の事実になった。 そのダービーの三日前、府中で取材を受けた騎手がいる。タケホープに乗る嶋田功だった。「ハイセイコーも4本脚なら、タケホープもおなじ4本脚だ」[^1]。嶋田はハイセイコーのNHK杯出走を知って、これで余力は残らないと踏んでいた。
出典:日本語版ウィキペディア「ハイセイコー」、https://ja.wikipedia.org/wiki/ハイセイコー、閲覧日:2026年8月3日。
残り四百メートル
1973年5月27日、東京競馬場。増沢は三、四番手につけるつもりでゲートを出た。 そこまでだった。一コーナーの手前で、他の馬が前を横切る。行き場を失ったハイセイコーは十番手まで下がり、しかも内へ入りすぎていた。NHK杯で内に詰まった感触が、増沢の手にまだ残っている。向正面で、馬群の外へ出した。 三コーナー。前へ動きはじめる。三角と四角の中間で二番手まで上がった。ここまでは、思い描いたとおりだった。 直線。残り四百メートルの標識を過ぎたあたりで、ハイセイコーは先頭に立つ。府中の直線は、まだ長い。 その直後に、脚が上がった。外からタケホープが来る。内からイチフジイサミが来る。二頭に交わされた。増沢は鞍の上で、よくて五着かと思ったという。スタンドの鈴木勝太郎は、五着も危ないと覚悟していた。 タケホープが勝った。ハイセイコーは三着。着差は〇秒九だった。 作家の石川喬司は、二頭に交わされたその瞬間、ハイセイコーがちらりとスタンドへ視線を向けたように見えた、と書き残している。 検量を終えた馬が競馬場の馬房へ戻ったとき、その周りにマスコミの人間は一人もいなかった。
応援が足りなかったんでしょうか
その日、東京競馬場には13万人が集まっていた。単勝の支持率は66.6パーセント。当時のダービーとして史上最高の数字である。売れた単勝およそ四億七千万円のうち、三億二千万円ほどがこの馬に投じられていた。 負けたあとの見出しは激しかった。ただの馬。落ちた偶像。「敗」セイコー、と書いた紙もある。 ところが、人気は落ちなかった。むしろ増えた。鈴木厩舎には、それまでより多くの手紙と電話が届くようになる。そのなかに、こう書かれたものがあった。「応援が足りなかったんでしょうか」[^1]。 負けたのは馬なのに、ファンは自分を責めたのである。 届く便りは競馬ファンのものだけではなくなった。子供が書いた。女性が書いた。「東京都 ハイセイコー様」——それだけの宛名で厩舎にはがきが着いたこともある。死んでしまおうと思っていたが、懸命に走る姿に思いとどまった、という手紙まであった。厩舎を訪ねてきた女子中学生は、ブラシに残ったたてがみでいいから欲しい、と言ったという。 擁護する声は玄人からも出た。この日、十八着に敗れたクリオンワードを管理していたのは、シンザンの背で三冠を獲った栗田勝である。栗田はレース後、先行した馬が総崩れになるなかでこの馬だけが上位に踏みとどまった事実を挙げ、出走馬のなかで最も力があるのはハイセイコーだと述べた。 1973年の日本には田中角栄の内閣があり、秋には石油危機が来る。地方から東京へ出てきた人々が、中央のエリートに挑む野武士の物語をこの馬に重ねた。当時マスコミの現場にいた記者たちは、のちにそう分析している。血統を見ればハイセイコーは野武士ではない。それでも、人はそう読みたかった。 競馬場の景色も変わった。中年の男のものだった場所に、若い女性や子供が来るようになる。鈴木勝太郎は後年、この馬のおかげで競馬そのものがまっすぐな方向へ変わったように思う、と語っている。
出典:日本語版ウィキペディア「ハイセイコー」、https://ja.wikipedia.org/wiki/ハイセイコー、閲覧日:2026年8月3日。
ハナ差 ― 淀と中山の秋
夏は北海道へ出さず、東京競馬場で過ごした。暑さには強い馬だった。9月に栗東へ送られ、秋初戦は10月21日の京都新聞杯。四コーナーで増沢が荒れた内を嫌って大きく外を回ると、その内から三頭が並びかけてきた。トーヨーチカラに半馬身届かず、シャダイオーにはアタマ差先着して二着。関西テレビの杉本清がこの馬を淀の白鳥に並べて語った実況はこのレースのもので、のちに「杉本節」と呼ばれる語り口の出発点になった。 11月11日、菊花賞。ダービーで六割を超えていた単勝支持率は、二割台まで落ちていた。それでも一番人気ではある。 先行し、三コーナーの手前で先頭に立つ。四コーナーでは後続を五、六馬身引き離していた。淀の直線に入って、タケホープが追ってくる。二頭はほとんど同時にゴールへ飛び込んだ。写真判定。ハナ差でタケホープが前だった。 タケホープに乗っていたのは武邦彦である。武は、ハイセイコーが馬体を併せられるともうひと伸びする馬だと見抜いていた。だから直線では最後まで並びかけず、ゴールの一点でだけ前に出た。 12月16日の有馬記念。ファン投票では投票者の90.8パーセントの支持を集めて一位に選ばれている。有馬記念のファン投票としては史上最高の率だった。レースでは、増沢とタニノチカラの田島日出雄が互いを見合った。その隙に、逃げたニットウチドリと、三コーナーからいち早く動いたストロングエイトが行ってしまう。十番人気のストロングエイトが勝ち、ハイセイコーは三着に終わった。 この年の年度代表馬はタケホープが選ばれた。選考の席では、一年を象徴するのが年度代表馬だというのならハイセイコーであってもおかしくない、という異論が出たという。ダービーと菊花賞の重みには及ばないとして退けられたが、ファンを沸かせた功に報いるため、ハイセイコーには「大衆賞」が贈られた。中央競馬の年度代表馬選考で特別賞が出たのは、これが初めてだった。
怪物くん
1974年は九着から始まった。1月20日のアメリカジョッキークラブカップで、タケホープに二秒一離される。増沢は気合が乗らなかったと言い、激戦続きの疲れを疑った。レース後、ごく微量の鼻血が出ていた。のちに、それが肺から来ていたとわかる。 3月10日の中山記念は不良馬場。二番手から四コーナーで先頭に並びかけ、大差で勝った。前年のNHK杯以来、十か月ぶりの勝利である。独走に入ってからも増沢は追うのをやめなかった。またタケホープに来られるのではないか、と思っていたという。 5月5日の天皇賞(春)は六着。三千二百メートルは長すぎた。この敗戦で、秋からアメリカへ遠征させるという計画は消える。あれで怪物か、普通の馬じゃないか。そんな声が増沢の耳にも届くようになった。 そのころ呼び名が変わっていた。「怪物」ではなく「怪物くん」。突き放した畏れが、身近な情に置き換わっていた。 6月2日の宝塚記念。京都の2200メートルを2分12秒9のレコードで走り、二着クリオンワードに五馬身をつけた。タケホープは天皇賞のあと屈腱炎を発症して休んでいる。増沢は後年、この一勝で失いかけていた人気が一気に戻ったと振り返っている。 三週後の高松宮杯には、中京競馬場史上最多の6万8469人が入った。夏負けの兆しが出ていて、状態は宝塚記念ほどではない。それでも三番手から四コーナーで先頭に並びかけ、直線半ばで抜け出した。レース後、増沢は年内での引退を口にしている。 秋は京都大賞典で四着。六十二キロを背負っていた。11月9日のオープンでヤマブキオーの二着に入ったあと、また鼻血が出る。規定で一か月は使えず、天皇賞(秋)は諦めるほかなかった。この馬にとって、天皇賞はよほど縁のないレースだった。
さらばハイセイコー
1974年12月15日、中山。引退レースの有馬記念。ファン投票は二年続けての一位だった。 逃げたのはタニノチカラ。ハイセイコーは三番手につけた。向正面でタケホープが上がってきて、四コーナーでは二頭が並んで先頭を追う形になる。直線に入っても差は縮まらない。タニノチカラが勝った。 それでもスタンドは沸いた。沸いたのは、勝ち馬の分ではない。ハイセイコーとタケホープの、二着争いにである。ハイセイコーが先着してゴールを通過した瞬間、拍手が起きた。テレビ中継のカメラは、勝ったタニノチカラではなくハイセイコーを大きく映した。両陣営がレース後に語ったのも、優勝馬のことではなく、互いの着順の先後だった。 このとき場内には『さらばハイセイコー』が流れている。競馬評論家の小坂巖が、増沢がハイセイコーの歌を歌えばヒット間違いなしと書いた一文をレコード会社の人間が読んだことから生まれた曲で、作詞は小坂、作曲は猪俣公章。翌1975年1月に発売されるとラジオのヒットチャートで一位、オリコンで最高四位、五十万枚を売った。 1月6日、東京競馬場で引退式が行われた。スタンド前から走り出したハイセイコーは、ゴール板を過ぎたところで動かなくなる。もう一度促されて走り出し、そのまま芝コースを一周した。引退式でコースを一周した馬は、中央競馬では初めてである。速度を落として一コーナーを過ぎたところで、馬は突然立ち止まり、首を振って増沢を振り落とした。いつもなら、その先で地下道を通ってコースを出る。ハイセイコーはそのつもりだったのだと、増沢はのちに書いている。じつに利口な馬だった、と。 翌日、馬運車に乗せられて厩舎を出た。八日の夕方、新冠の明和牧場に着いた。
新冠の放牧地
種牡馬になってからも、人は減らなかった。明和牧場にはファンを乗せた観光バスが列を作り、専用の放牧場と展望台が用意された。年に数万人が訪れる場所になる。馬産地を訪ねる競馬ファンという習慣は、この馬から始まったと言っていい。 初年度産駒のカツラノハイセイコが、1979年の東京優駿を勝った。父が勝てなかったレースである。父内国産馬のダービー制覇は二十年ぶりで、二着リンドプルバンに乗っていたのは、六年前にタケホープで父を負かした嶋田功だった。のちにサンドピアリスがエリザベス女王杯を、ハクタイセイが皐月賞を勝つ。1990年、ハイセイコーは地方競馬のリーディングサイアーになった。 1984年、顕彰馬に選ばれた。理由に挙げられたのは競走成績ではなく、競馬の大衆人気化への大きな貢献である。 増沢は走り続けた。四十歳で関東の首位、四十四歳で全国の首位。1986年、ダイナガリバーで二度目の東京優駿を勝つ。四十八歳七か月、ダービー史上最年長の優勝騎手だった。あの三着から、十三年が過ぎていた。 「ダービーだけは、どんなに強い馬でも勝てないことがあるんですよ」[^1]。増沢はかつてそう言った。力があって、そこに運がなければ取れないのだ、と。ハイセイコーには力があった。運は、あの日は来なかった。 2000年5月4日、明和牧場の放牧地で倒れているところを見つかった。心臓麻痺だった。調教師になって牧場を回っていた増沢は、報せを聞いて駆けつけている。馬はまだ放牧地に横たわったままで、増沢はその傍らにしばらく黙って立っていたという。墓碑にはこう刻まれた。「人々に感銘を与えた名馬、ここに眠る」[^2] 二十二戦十三勝。三冠のうち手にしたのは皐月賞。ダービーにも菊花賞にも、最後まで届かなかった。それでもこの馬が国民のものになったのは、勝ったからではない。ギャンブルでしかなかった競馬が、勝ち負けの外側でも成り立つ何かに変わっていく。その変わり目に、この馬はいた。 あの春、府中で負けた馬に、人々は詫びるような手紙を書いた。二十七年後、その馬は生まれた新冠の草の上に横たわり、駆けつけた男は何も言わずにそばに立っていた。
出典:日本語版ウィキペディア「ハイセイコー」、https://ja.wikipedia.org/wiki/ハイセイコー、閲覧日:2026年8月3日。/日本語版ウィキペディア「ハイセイコー」(墓碑銘)、https://ja.wikipedia.org/wiki/ハイセイコー、閲覧日:2026年8月3日。
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