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アイネスフウジン
通算成績8戦4勝
獲得賞金2億3,600万円
生年月日 1987.04.10(昭和62年)毛色 黒鹿毛性 牡
全成績
主要戦績(抜粋)・新しい順| 年月日 | 着順 | レース | コース | 人気 | 騎手 | タイム | 上り3F | 映像 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | GI東京優駿 | 東京 芝2400 | 3人気 | 中野栄治 | 2:25.3 | 上り36.6 | 映像 | |
| 2 | GI皐月賞 | 中山 芝2000 | 1人気 | 中野栄治 | 2:02.2 | 上り37.6 | 映像 | |
| 4 | GII報知杯弥生賞 | 中山 芝2000 | 1人気 | 中野栄治 | 2:05.8 | 上り39.7 | — | |
| 1 | GIII共同通信杯4歳S | 東京 芝1800 | 1人気 | 中野栄治 | 1:49.5 | 上り48.4 | — | |
| 1 | GI朝日杯3歳S | 中山 芝1600 | 5人気 | 中野栄治 | 1:34.4 | 上り37.4 | 映像 | |
| 1 | 3歳未勝利 | 東京 芝1600 | 1人気 | 中野栄治 | 1:36.0 | 上り48.6 | — | |
| 2 | 3歳新馬 | 中山 芝1600 | 1人気 | 中野栄治 | 1:35.5 | 上り36.9 | — | |
| 2 | 3歳新馬 | 中山 芝1600 | 2人気 | 中野栄治 | 1:36.1 | 上り37.5 | — |
血統
金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ| 父シーホーク | Herbager | Vandale |
| Flagette | ||
| Sea Nymph | Free Man | |
| Sea Spray | ||
| 母テスコパール | テスコボーイTesco Boy | Princely Gift |
| Suncourt | ||
| ムツミパール | モンタヴァルMontaval | |
| マサリユウ |
旅程 — この馬の物語
1987年生まれの黒鹿毛の牡馬。父シーホーク、母テスコパール。主な勝ち鞍は朝日杯3歳S・東京優駿・共同通信杯4歳S。
テスコホーク
北海道浦河町の中村牧場は、借金を抱えない、を家訓のようにしていた。当主の中村吉兵衛は種付け料の安い年寄りの種牡馬ばかりを選び、預けた調教師に怒られることさえあったという。1968年の菊花賞を勝ったアサカオーを最後に、生産馬の成績は長く低迷した。倒産の縁まで行ったこともある。 1965年生まれのムツミパールは、その牧場で生まれた牝馬である。26戦4勝で引退し、里帰りして仔を産んだ。あるとき吉兵衛は知人から、この牝馬にシーホークを付けてはどうかと勧められる。両馬に共通する祖先ノースマンが4×3で並び、いわゆる奇跡の血量になる、という理屈だった。吉兵衛は断った。当時のシーホークには、まだ活躍馬がいなかった。 代わりに選んだのがテスコボーイである。日高軽種馬農業協同組合が輸入した種牡馬で、種付け料は安いのに産駒がよく走り、権利は抽選になるほど産地の評判が高かった。資金の乏しい牧場が、その抽選を引き当てる。1976年4月22日に生まれた牝馬は、テスコパールと名づけられた。 テスコパールは吉兵衛以外の目にも良く映る馬だったが、2歳の春に悪性の下痢に倒れる。長い闘病の末に命は助かった。ただし一度も競馬場を走らないまま、繁殖牝馬に上がった。そして1986年、その交配相手に選ばれたのが、十年前に断ったシーホークだった。 吉兵衛が高齢を理由に退き、息子の幸蔵が跡を継いだ翌年。1987年4月10日、テスコパールの7番仔として黒鹿毛の牡馬が生まれた。牧場では両親の名を継いで「テスコホーク」と呼ばれる。当歳の頃から馬体の評価は高く、それを見出したのは調教師の加藤修甫だった。加藤は冠名「アイネス」を使う馬主・小林正明から、幼駒の調達をすべて任されていた。 名前は、小林が当時高校生だった二人の娘に頼んだ。娘たちが出した案は「風神」である。冠名と合わせて、アイネスフウジンになった。
「おまえ、ダービー取ってみたいだろ」
1989年の夏、美浦は閑散としていた。人も馬も本場を離れる季節である。 そこにいた中野栄治は36歳。1971年に東京の荒木静雄厩舎からデビューし、翌年から1988年まで十七年続けて二桁を勝ってきた騎手だった。だがこの頃は減量に苦しみ、騎乗依頼が細り、引退も考えていた。 その中野に声を掛けたのが加藤である。「中野、おまえダービー取ってみたいだろ。ウチのに乗ってみないか?」[^1] 加藤が調教師の免許を取ったのも、中野が騎手になったのも、同じ1971年だった。加藤の側にも渇きがある。1988年のミュゲロワイヤル、1989年のアイネスボンバー。二年続けて、ダービーに出すはずだった管理馬が故障で消えていた。 9月10日、中山の芝1600メートル。デビュー戦は2番人気で2着。十三日後、同じ条件で単勝1.3倍に推され、また2着だった。三戦目、中野は格上の特別競走に使ってくれと願い出るほどの手応えを持っていたが、実際に出走したのは10月22日、東京の未勝利戦である。ゲートから逃げて、1馬身3/4差。三度目でようやく勝った。 大きな馬だった。デビュー時で504キロ。後駆は充実しているのに前駆が貧しく、前後の釣り合いが取れていない。中野はその乗り味を、前のタイヤがパンクした自転車のようだと言い表している。ハミにぶら下がって走るので、手綱を引けばたちまち均衡を失う。控えて我慢させても、追ってからの伸びがない。逃げるしかない馬だった。 未勝利を勝ったあと、腰に疲れが出た。連戦はできなかった。
出典:ウィキペディア日本語版「中野栄治」(加藤修甫が騎乗を持ち掛けた際の言葉に関する記述)、https://ja.wikipedia.org/wiki/中野栄治 、閲覧日:2026年8月3日。
不滅の時計に並ぶ
年内にもう一戦、というところで、加藤は距離を延ばして12月24日のホープフルステークスを考えていた。中野が推したのは、一週間早い12月17日、中山の朝日杯3歳ステークスである。力試しにもなる。加藤は騎手の案を採った。 15頭が集まった。上位人気はいちょうステークスを勝ったカムイフジと、京成杯3歳ステークスを勝って三連勝中の牝馬サクラサエズリ。単勝11.5倍のアイネスフウジンは5番人気だった。 ゲートが開くとサクラサエズリが速い。アイネスフウジンも位置を上げ、並んで先頭に立った。二頭は第3コーナーの手前で後続に5馬身をつけ、1000メートルを56秒9で通過する。逃げ馬にとっては無謀に近い数字である。 最終コーナーで先に動いたのはサクラサエズリだった。中野は一度後ろを振り返って隊列を確かめている。強く追ってはいない。それでも突き離されなかった。直線に入っても後ろから来る馬はなく、残り150メートルでアイネスフウジンが抜け出し、2馬身半差でゴールした。 1分34秒4。1976年にマルゼンスキーが出し、「不滅」と呼ばれてきた3歳のレコードに並ぶ時計だった。 浦河では、中村幸蔵が競馬場へ行っていない。勝つはずはないと思っていたし、92歳の父・吉兵衛が入院していた。親子は病室のテレビでそれを見た。口がポカンと開いたままだったという。中村牧場にとってはアサカオー以来の重賞勝利であり、加藤修甫にとっては初めてのGIだった。 吉兵衛は翌年のクラシックを心待ちにした。だが十三日後の12月30日に世を去る。テスコパールの仔が府中で何をするかを、見ることはなかった。 年末のJRA賞では、満票172のうち112票を集めて最優秀3歳牡馬に選ばれている。
内を捨てる春
1990年2月11日、共同通信杯4歳ステークス。雨の東京、8頭立て、単勝1.7倍。中野はこの日、控える競馬を覚えさせるつもりで、わざと出遅れさせている。それでも脚色が違いすぎた。結局は先頭に立ち、3馬身をつけて勝った。 3月4日、弥生賞。一頭だけを一つの枠に入れる単枠指定を受け、1.9倍の1番人気に推された。当日は不良馬場で、とりわけ内側が傷んでいる。この走法で内はもたない、無理をさせれば走る気そのものを失いかねない。中野はそう判断して、状態のいい外を通した。逃げたが、直線で伸びを欠く。残り200メートルで内からメジロライアンにかわされ、ツルマルミマタオーとホワイトストーンにも先着されて4着だった。 負けたレースである。それでも中野は後年、この馬の力を確信したのは弥生賞だと語っている。内から交わされたとき、並の馬なら諦める場面で、抜き返そうとする気配が伝わってきたのだという。 4月15日、皐月賞。単勝4.1倍の1番人気。メジロライアンが5.0倍、きさらぎ賞まで五連勝中のハクタイセイが5.6倍で続き、三強と呼ばれた。1枠2番を引いた中野は、スピードが違う、思い切って逃げると宣言している。 ところが発走で、隣の3番ホワイトストーンが内へ寄った。1番ワイルドファイアーとの間に挟まれ、出脚を欠く。先手はフタバアサカゼに渡った。その馬が刻んだ前半1000メートルは60秒2、以降はさらに緩む。速い流れでこそ生きる馬に、この展開は向かない。自分で自分を抑えることもできなかった。残り600メートルで先頭に立ったものの直線で伸びず、外から食い下がったハクタイセイに、クビ差だけ捉えられた。 レース後、中野を降ろせという声が上がった。加藤は取り合っていない。おまえのせいで負けたんじゃない、最後まで任せる。そう言って、ダービーは勝とうな、と付け加えた。厩舎はレントゲンを撮り、消耗の大きさを確かめて、二週間の休みを与えている。
五月二十六日、府中
ダービーの前日、中野は東京競馬場のメインレース、メイステークスに乗った。ローゼンリッターという馬で、コースは芝2400メートル。翌日と同じ距離、同じ舞台である。 確かめたいことが二つあった。ひとつは馬場だ。前へ行く馬にとっては、どこを通るかがすべてになる。中野は騎乗しながら路面を見て、第3コーナーの内側がとりわけ悪いと見た。本番では避ける、と決める。 もうひとつは時間である。アイネスフウジンは気が前向きで、待たされるだけで力を使う。中野は待避所からゲートまで歩かせるつもりでいた。試しに発走の8分前に動いてみたところ、集合時刻の前にゲートを通り過ぎてしまう。そこで当日は7分前、キャンターで向かうことにした。他馬とほぼ同じ頃合いに着いた。 枠は5枠12番だった。中野の結婚記念日は5月12日である。中村牧場がかつて送り出したアサカオーの誕生日も5月12日、幸蔵が応援に向かう飛行機の座席も、競馬場の指定席も12番だった。 人気は落ちていた。連敗のあいだにメジロライアンとハクタイセイが単勝3倍台で並び、アイネスフウジンは5.3倍の3番手である。中野は関係者に、馬券が買えるものなら借金してでもこの馬を1番人気にしてやりたい、と言っている。 1990年5月27日、東京競馬場の入場者は19万6517人を数えた。在籍地である東京都府中市の人口に匹敵する数で、ダービーの入場者記録としていまも破られていない。競馬場の入場者としても世界最多とされる。
先頭のまま、内を空けて
晴れ、良馬場。22頭がゲートに入る。 扉が開いた瞬間、アイネスフウジンは右へ寄れた。それでも隣の馬には当たらない。この頭数では発馬機を二台つないで使うので、12番と13番のあいだだけ、ほかより隙間が広い。寄れた分は、その隙間が吸い込んだ。 内の各馬を制して、1コーナーまでに先頭。抑えるという選択肢は、この馬には無い。手綱を引けば均衡を崩す走法である。最初の1000メートルは59秒8。ダービーの前半としては速い。誰かが競りかけてくれば共倒れになる数字だが、誰も来なかった。 向正面。後ろとの差が4馬身に広がる。ここで中野は、コースの内を空けた。前日に見てある。第3コーナーの内側は傷んでいて、この馬の脚では耐えられない。だから最短距離を捨て、少し外を回した。 第3コーナーの手前で、後ろが動く。ハクタイセイとカムイフジが差を詰めてきた。二頭が選んだのは内である。 第4コーナー、中野が仕掛ける。詰めてきた二頭は、そこから伸びなかった。荒れた内を通った代償が、この数百メートルで出た。 直線に向いたとき、リードは2馬身。府中の直線は長く、逃げた馬がもっとも脆くなる場所である。残り200メートル、後方に控えていたメジロライアンが外から追い込んできた。 届かない。一馬身と四分の一。 前半を59秒8で飛ばした馬が、最後の600メートルを36秒6でまとめていた。息を入れずに逃げて、終いも落ちなかったということである。時計は2分25秒3。二年前にサクラチヨノオーが出したダービーレコードを、ちょうど1秒縮めた。
ナカノ
ゴールを過ぎたところで、アイネスフウジンは躓いた。余力が尽きている。向正面で立ち止まって息を整え、それからゆっくりと引き返してきた。ほかの馬は向正面から馬場を出たが、この馬だけはスタンド前を回って退場することになる。 中野は後年、ゴールの瞬間に馬上でつぶやいた言葉を明かしている。「ざまあみろ!このオレだってジョッキーだ!」[^1] レースが終わって数分が過ぎても、観客は席を立たなかった。ゆっくりと戻ってくる一頭を、19万人が見ていた。 声は、スタンド一階のゴール板のあたりから上がった。ナカノ、ナカノ。手拍子に合わせた合唱は波紋のように広がり、やがてスタンド全体を覆う。地下の検量室にまで届き、正門の付近でも聞こえたという。ゴンドラのフジテレビ実況席にいた鈴木淑子は、大観衆が手を突き上げて叫ぶのを見下ろし、背筋が寒くなったと語っている。同じフジテレビの解説席にいた大川慶次郎は、自分が本命に推したメジロライアンが負けたにもかかわらず、その声に涙を落とした。 勝った馬の名ではなく、乗っていた人間の名を、大観衆が唱和する。前例のない光景だった。 スタンドには、92歳の大久保房松がいた。騎手としても調教師としてもダービーを勝った男である。「あんな声援で迎えてもらえるなら、もう一度、乗り役をやりたいねえ。そしてダービーに勝ちたいよ」[^2]。この言葉を、競馬が社会悪と蔑まれた時代を馬とともに生きてきたすべての競馬人の思いの代弁だ、と江面弘也は書いている。 そこには、揃いの制服を着た坊主頭の少年も八人いた。千葉の競馬学校から電車で見学に来た騎手課程の八期生である。上村洋行、菊沢隆仁、後藤浩輝、小林淳一、高橋康之、橋本美純、横山義行、吉永護。八人は言葉を失ったまま、いつか自分もこのレースに乗って勝ちたいと思った。デビューは二年後だった。 この日を境に、勝った馬や騎手をコールで称えることが競馬場の作法になる。前夜から門に並ぶ客が現れ、ファンファーレに手拍子を合わせる習慣が生まれ、JRAは大競走の入場制限と警備と救護を強めることになった。日本の競馬がギャンブルからスポーツへ移り変わった瞬間だと、のちに何度も書かれる数分間である。
出典:ウィキペディア日本語版「中野栄治」(ゴール直後の中野の言葉に関する記述)、https://ja.wikipedia.org/wiki/中野栄治 、閲覧日:2026年8月3日。/江面弘也「『おやめなさい。ご両親が悲しみますよ』…31年前の日本ダービー・伝説の『ナカノコール』は“競馬が認められた”瞬間だった」Number Web、2021年5月27日配信(初出:Sports Graphic Number 2019年5月16日発売号)、https://number.bunshun.jp/articles/-/839377 、閲覧日:2026年8月3日。
馬房に戻ると
同じ直線で、一頭が競走をやめていた。ダイイチオイシ。故障を発生し、予後不良と診断されて安楽死の措置がとられている。19万人の合唱は、そのことを知らないまま膨らんでいた。 表彰式を終えて馬房に戻ったアイネスフウジンは、左前脚が腫れていた。屈腱炎だった。 夏、福島県いわき市の温泉施設で二か月半ほど療養する。8月30日、美浦へ帰厩して初めて時計を出した。その直後に、また脚元へ不安が出る。現役引退が発表された。JRAは引退式を勧めたが、脚を痛めて辞める馬を馬場に出すわけにはいかない、と関係者が断っている。ダービーが、この馬の最後のレースになった。 種牡馬としては長く恵まれなかった。一度は引退が検討されている。踏みとどまったのは2000年、牝馬のファストフレンドが帝王賞と東京大賞典を勝ったからだった。砂の女王と呼ばれた馬である。 母テスコパールは、息子が府中を逃げ切った1990年にゲイメセンを付けられ、翌年に双子を産んだ。リアルポルクスとリアルカストール。どちらも二戦して勝てないまま終わっている。 中村牧場はもう一度シーホークを付けて全弟か全妹をと望んだが、叶わなかった。父はすでに二十八歳である。繋養していた愛好会は、老いた馬の健康を守るために交配の希望をすべて断っていた。それでも求める声は止まず、1990年3月に売りに出された一年限りの種付け権利は505万円で落札されている。ピークの100万円を別にすれば、それまで四十万から五十万円だった馬だった。 アイネスフウジンは2004年4月5日、宮城県の牧場で腸捻転により死んだ。17歳。府中に残した2分25秒3は、その年のダービーでキングカメハメハに更新されるまで十四年間破られなかった。
ゴール板の下から
馬主の小林正明が中央競馬の馬主登録をしたのは1988年12月である。その年に初めて所有した馬で、登録から二年でダービーを勝った。しかし本業の経営が傾き、1998年にこの世を去っている。 加藤修甫は1990年、自身初の年間30勝と勝率一割九分八厘を記録してJRA賞最高勝率調教師に選ばれた。父の朝治郎はプレストウコウで菊花賞を勝った調教師で、親子二代のクラシック制覇になる。加藤にとって最後のGIは1998年の天皇賞(秋)だった。勝ったオフサイドトラップは、三度の屈腱炎を克服して戻ってきた馬である。加藤は2006年に定年で厩舎を閉じ、2012年に亡くなった。 そして中野栄治は、ダービーの二年後、1992年に一年間ひとつも勝てなかった。年間勝利ゼロのダービージョッキーとして、テレビの取材を受けている。1995年に調教師免許を取って騎手を退いた。通算3670戦370勝、重賞16勝。翌年に厩舎を開き、2001年にはトロットスターで高松宮記念とスプリンターズステークスを勝つ。2024年3月、定年で調教師を引退した。最後に勝った重賞は同じ年の日経新春杯で、その馬ブローザホーンは転厩したのちに宝塚記念を勝った。中野はもう、その勝負服のそばにいなかった。 大久保房松が羨ましがったのは、ダービーを勝ったことではない。あの声で迎えられることだった。中野の手にした一勝は、記録の上では重賞十六のうちのひとつでしかない。それでも、走り終えた一頭が息を整えて帰ってくるのを19万人が立ち去らずに待ち、その背に向かって、初めて人の名を呼んだ。 いまも大きなレースが終われば、スタンドは勝った騎手の名を呼ぶ。その最初の一声が上がったのは、五月の府中の、ゴール板の下だった。
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