名馬の記憶を、
再生する。

年表ICHINEN-ISSO — 2400m

BOKUJŌ-CHŌ — HOKKAIDO

牧場帖

一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。
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マルゼンスキーのイメージビジュアル
マルゼンスキーMaruzensky
Maruzensky

マルゼンスキー

通算成績8戦8勝

生年月日 1974.05.19(昭和49年)毛色 鹿毛

全成績

主要戦績(抜粋)・新しい順
マルゼンスキーの成績一覧
年月日着順レースコース人気騎手タイム映像
1 短距離S 札幌 ダ1200 1人気 中野渡清一 1:10.1R
1 日本短波賞 中山 芝1800 1人気 中野渡清一 1:51.4
1 4歳オープン 東京 芝1600 1人気 中野渡清一 1:36.3
1 4歳オープン 中京 芝1600 1人気 中野渡清一 1:36.4
1 朝日杯3歳S 中山 芝1600 1人気 中野渡清一 1:34.4R
1 府中3歳S 東京 芝1600 1人気 中野渡清一 1:37.9
1 いちょう特別 中山 芝1200 1人気 中野渡清一 1:10.5
1 3歳新馬 中山 芝1200 1人気 中野渡清一 1:11.0

血統

金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ
マルゼンスキーの血統表(左から親・祖父母・曽祖父母)
NijinskyNorthern DancerNearctic
Natalma
Flaming PageBull Page
Flaring Top
シルShillBuckpasserTom Fool
Busanda
QuillPrincequillo
Quick Touch
STORY

旅程 — この馬の物語

1974年生まれの鹿毛の牡馬。父Nijinsky、母シル。

丸善の勘

1973年秋、北海道・胆振の軽種馬農協青年部がアメリカ研修旅行に発とうという直前に、欠員が出た。急な穴を埋められる人間として声が掛かったのが橋本善吉である。牛の仲買人で、パスポートをすぐに出せた。少年時代に馬の牧場で十年働き、ばんえいの馬主として競馬に足を踏み入れたばかりで、いつか自分で競走馬を生産したいと考えていた。 旅程には希望者だけのオプションが組まれていた。キーンランドのセリである。会場で橋本は、東京競馬場の調教師・本郷重彦と知り合う。ふたりは同じ一頭の前で足を止めた。繁殖牝馬シル。父はアメリカの殿堂馬バックパサー、母はエイコーンステークスやメイトロンステークスを勝って十四勝を挙げたクィル。同じクィルから出た半弟のコーカサスは、二年後にアイリッシュセントレジャーを勝つことになる。 そのシルの腹には、ニジンスキーの仔が入っていた。本郷は皮膚の良さに驚いた。橋本のほうは、尻の張った雌牛はいい仔を産むという、牛で培った自分の物差しを信じた。落札は三十万ドル。輸入の費用まで含めて、一億二千万円が動いた。 1974年5月19日、シルは牡を産む。名は生まれる前から決めてあった。橋本の屋号「丸善」から採って、牡ならマルゼンスキー、牝ならミスマルゼン。 東京から検分に来た本郷は、開口一番、前脚のことを言った。膝から下が外へ曲がり、正面から見るとAの字になる。外向肢勢という。曲がりは育つほどに度を増し、脚曲がりと陰口を叩く者も出た。この脚では強い調教に耐えられまい、良い馬だが競走馬には仕上がらないだろう——そう見た者は少なくない。産後十日から募ったシンジケートは一カ月で満口になったが、二カ月後、評判だったニジンスキー産駒が初戦で大敗すると会員が次々に降りた。最後まで残ったのは八人だった。

三億五千万円の共演

1976年7月、マルゼンスキーは東京競馬場の本郷厩舎に入る。脚部に不安があり、強い調教は掛けられない。デビューは10月9日、中山の芝千二百メートルの新馬戦だった。鞍上は中野渡清一。 中野渡は青森の生まれで、1957年に本郷厩舎へ騎手見習として入り、1961年に同じ厩舎からデビューした男である。九年前には、のちに「怪物」と呼ばれるタケシバオーの手綱を夏の函館から任され、朝日杯3歳ステークスを七馬身差で勝っている。ただし翌春の弥生賞を最後に、その馬から降ろされた。馬鹿なことをやったものだと、後年まで悔いを口にしている。 その新馬戦には、もう一頭の持込馬タイプアイバーがいた。母はアメリカの名牝タイプキャストで、落札額は当時のレートで二億二千万円近い。シルに掛かった一億二千万円と合わせ、三億五千万円の共演と騒がれた。評論家の大川慶次郎によれば、母の競走実績で勝るタイプアイバーのほうが前評判は高かったという。 ゲートが開くと、マルゼンスキーはすぐに先頭へ出た。そのまま帰ってきた。着差は大差、二着との時計の開きは二秒あった。中野渡はそれほど走るとは思っていなかったと振り返り、タケシバオーに乗った感触ともどこか違っていた、と言い添えている。三週間後のいちょう特別も逃げて九馬身差。速さが違うというだけで、競馬が終わっていた。

ハナ差

11月21日、東京の府中3歳ステークス。五頭立て、馬場は重い。相手は北海道3歳ステークスを勝ってきたヒシスピードだった。 この馬の力に惚れ込んでいた中野渡は、迫ってきたところで追い出せばいいと考え、道中は手綱を抑えた。抑えられたマルゼンスキーは機嫌を損ね、折り合いを欠く。直線の半ば、ヒシスピードが一気に並びかけてきた。慌てて追った。二頭は並んだまま入線し、写真判定になる。ハナ差、先着していた。 レース後、中野渡は本郷にひどく叱られた。橋本は乗り替わりをほのめかしたという。中野渡が恐れたのは、負けたことより降ろされることだった。名馬を途中で手放す痛みを、彼はタケシバオーで一度知っている。 もっとも、抑えたのには事情もあった。三着に入ったミスターケイは同じ本郷厩舎の馬で、適度な差での一、二着独占を狙った橋本自身が、あまり離すなと中野渡に指示していたのである。負けていたら主犯は自分だ——橋本は後にそう認め、あのときばかりは冷や汗をかいたと振り返っている。

壊れてもいいから行ってみろ

12月12日、中山。関東の三歳王者を決める朝日杯3歳ステークス(当時の三歳は現在の二歳にあたる)。前走の反省から、この馬は調教で初めて目一杯に追われた。 発走前、本郷は中野渡にこう言った。「壊れてもいいから行ってみろ。責任は俺が持つ」[^1] スタートから先頭を奪い、直線でヒシスピードを突き放した。着差は大差、時計にして二秒二。走破時計の一分三十四秒四はコーネルランサーの持つ三歳レコードを〇秒二更新し、以後十四年間、破られなかった。置き去りにされたヒシスピードの一分三十六秒六も、当時としては水準級である。強い馬が普通の速さで勝ったのではない。一頭だけ、別の速度で走っていた。 競走後、中野渡は自分は馬の上に跨っていただけだと言い、三コーナーを過ぎてからは後ろの足音も聞こえなかったと話した。ヒシスピードの鞍上・小島太は化け物だと評し、当分は顔を合わせずに済むのが正直ほっとする、とも漏らしている。 四戦四勝。その年の最優秀三歳牡馬に選ばれた。

出典:『優駿』1995年8月号、88-91頁/『サラブレ』2000年12月号、135-141頁(ja.wikipedia.org/wiki/マルゼンスキー 経由で確認)、閲覧日:2026年8月4日。

走れるレースの一覧

年が明けて四歳。橋本は一株五百万円を五十口、総額二億五千万円のシンジケートを組み直し、これはすぐに満口となった。最大目標は年末の有馬記念、翌年からは国外へ——そういう長期計画が立てられた。 ところが、この馬には走れるレースがほとんどなかった。 母の胎内で海を渡り、日本で生まれた馬を持込馬という。1971年に活馬の輸入が自由化され、その代償として国内生産者を守る政策が敷かれた。持込馬は外国産馬と同じ扱いになり、有馬記念を除く八大競走——クラシック五競走と天皇賞——への出走権を失う。1976年から77年にかけて、出自を問わず出走できる混合競走は、番組全体の11.7パーセントしかなかった。制限が解けるのは1984年である。マルゼンスキーは、ちょうどその狭間に生まれていた。 1月22日、中京のオープン。登録が知れ渡ると回避馬が続出し、規定頭数に足りず競走不成立の見通しが立った。本郷は、せめて客に走りだけでも見せようと朝日杯の優勝レイを中京へ持ち込んでいたという。競走を成立させたのは関西の調教師・服部正利で、自分の管理馬を二頭出した。タイムオーバーになるような大差だけは勘弁してくれ——服部は中野渡にそう頼んだ。二馬身半差で勝った。 このあと膝を骨折し、三カ月休む。5月7日、東京のオープンを七馬身差で勝った。そして五月の最終週が来る。日本ダービー。出走権はない。 ダービーの当週、中野渡はこう話したと伝えられている。枠順は大外でいい、他の馬の邪魔は一切しない、賞金もいらない。「この馬の能力を確かめるだけでいい」[^1] 橋本は裁判も考えたが、本郷が難色を示し、ほかの事情も重なって断念した。なぜ簡単に諦めるのか、なぜ訴えないのか——ファンからの手紙が牧場に何通も届いた。 JRAは持込馬が出られる重賞の枠を十一競走から七十八競走へ広げる緩和策を打ち出したが、生産者団体の猛反発を受けて全面白紙撤回。翌年も何ひとつ変わらなかった。主催者の広報誌『優駿』の座談会でも、これは正面から議論されている。あんなに強い馬が日本にいるのに、なぜダービーに出られないのか。ファンが抱いていたのは、その素朴な疑問だった。

出典:『Sports Graphic Number』340号、58-64頁(ja.wikipedia.org/wiki/マルゼンスキー 経由で確認)、閲覧日:2026年8月4日。

六月二十六日、中山

ダービーに出られなかった馬たちが集まるレースがある。六月末の日本短波賞。「残念ダービー」と呼ばれた。中山の芝千八百メートル。この馬にとっては、出られる数少ない一戦だった。 その日、中山には八万人近い客が入った。前週に予定されていた東京のオープンは、登録が四頭しか集まらずに不成立になっている。走る姿を見られる機会そのものが、少なかったのである。 馬場は不良。ゲートが開くと、マルゼンスキーはあっさりと先頭に立った。最初のコーナーを回るころには、二番手との間はもう六、七馬身開いている。いつもの競馬だった。 異変は三コーナーから四コーナーにかけて起きた。首が高く上がる。脚色が鈍る。二番手から仕掛けたインタースペンサーが差を詰め、並びかけた。その様子に、スタンドは大きくどよめいたと伝えられる。 中野渡が肩に鞭を入れた。それだけだった。それで馬は加速し直す。四コーナーを回りきると直線は独走になり、二着プレストウコウとの差は七馬身に開いた。 失速の理由を、中野渡はこう説明している。馬場が悪いので、状態のいい外めを選んで走らせていた。そこへインタースペンサーが一気に来たので、馬の気持ちがフワッとしてしまった、と。 負かしたプレストウコウは、この秋にセントライト記念と京都新聞杯を連勝し、クラシック最終戦の菊花賞を勝つ。ダービーに出してもらえない馬が、ダービー路線の勝ち馬を七馬身ちぎった。六月の中山で起きたのは、そういうことだった。

札幌の砂、函館の埒

7月24日、札幌。ダート千二百メートルの短距離ステークス。当時の最強馬と目されていたトウショウボーイの出走が取り沙汰されたが、中野渡は来ないと踏んでいた。ほかに走れるレースがいくらでもある馬を、わざわざ傷つける必要はない。実際にトウショウボーイは回避し、競走成立の下限である五頭立てになった。それでもヒシスピード、ヤマブキオーといった一線級が顔を並べている。 砂を深く敷いた当時の札幌のダートで、逃げたのは牝馬のヨシオカザンだった。前半六百メートルは三十三秒二。異常な速さである。マルゼンスキーは生涯で初めて二番手を走った。それを苦もなく追走している。鞍上の中野渡は、この馬をあの牝馬に種付けしたら面白い仔ができるかもしれない、などと考えていたという。 鞭は抜かなかった。それでヨシオカザンをかわし、二着ヒシスピードに十馬身。一分十秒一のレコードだった。「びっしり追っていれば、1分9秒台が出せた」[^1]と中野渡は言っている。八連勝である。 このころ、脚はすでに危うかった。関西の重鎮・武田文吾は、よくこの脚で持っているものだと漏らしたという。それでも橋本の計画は伸びていく。函館の巴賞、秋の京都大賞典を経て有馬記念へ。さらに翌春には連勝を日本記録まで伸ばし、フランスへ渡って凱旋門賞とワシントンDCインターナショナルを目指す。中野渡にも同行してもらう、と。 その函館で、調教中の事故が起きる。中野渡の代役を務めた騎手が御しきれず、埒に衝突した。屈腱炎——前脚の腱を痛める、競走馬にとって最も重い故障のひとつを発症する。巴賞も京都大賞典も使えず、牧場へ放牧に出された。 10月初旬に帰厩。有馬記念のファン投票では、のちにTTGと呼ばれるテンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスに次ぐ四位に選ばれていた。四頭が同じゲートに入る。年末の楽しみは、そこに絞られていた。 12月15日、最終追い切り。落馬負傷で戦線を離れていた中野渡の代わりに、加賀武見が乗った。時計自体は一番時計。だが加賀は直線で異常を感じていたという。屈腱炎の再発だった。症状はごく軽く、獣医師は出走できると診断している。それでも橋本が患部に手を当てようとすると、馬は脚を上げた。痛がっている。万一レースで故障したら元も子もない——本郷はそう判断し、回避を決めた。 出走できる目標レースは、宝塚記念と有馬記念のほかに残っていない。走れるレースが、ついに尽きた。種牡馬とするため、引退が決まった。

出典:『優駿』1995年9月号、88-91頁(ja.wikipedia.org/wiki/マルゼンスキー 経由で確認)、閲覧日:2026年8月4日。

一九七八年一月十五日、府中

引退式は1978年1月15日、東京競馬場で行われた。ゼッケンは2番。日本短波賞で着けていた番号である。中野渡は負傷が癒えないまま、その背に跨った。スタンドには「さようならマルゼンスキー。語り継ごうおまえの強さを。讃えよう君の闘志を」という横断幕が掲げられていた。八戦八勝。二着につけた着差の合計は、六十一馬身にのぼった。 挨拶に立った橋本は、詫びるかわりに約束をした。持込馬という宿命でクラシックに出られなかったのは残念だ、しかし「この鬱憤は子供たちで必ず晴らします」[^1]。 その言葉は十年後に果たされる。1988年、マルゼンスキーの仔サクラチヨノオーが東京優駿を勝った。父が立てなかったゲートに仔が入り、父が走れなかった二千四百メートルを勝ち切った。前年の朝日杯3歳ステークスでは、父仔で同じ競走を制してもいる。1990年、マルゼンスキーはJRA顕彰馬に選出された。 中野渡はその後も乗り続け、1987年に鞭を置き、二年後に美浦で厩舎を構えて2010年まで調教師を務めた。八大競走の優勝は、1968年のオークスひとつきりで終わっている。日本一強いと信じた馬に八回乗って、その強さをクラシックの舞台で試す機会は、ついに訪れなかった。 一九七八年一月の府中。馬場を半周したマルゼンスキーは、四コーナーから疾走に移った。ダービーであれば十数頭がいるはずの直線に、追ってくる影はひとつもない。誰の邪魔もせず、賞金も懸かっていない。中野渡が春に願い出たとおりの走り方で、この馬は最後の直線を駆けていった。

出典:『競馬名馬&名勝負読本'98』40-45頁(ja.wikipedia.org/wiki/マルゼンスキー 経由で確認)、閲覧日:2026年8月4日。

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