名馬の記憶を、
再生する。

年表ICHINEN-ISSO — 2400m

BOKUJŌ-CHŌ — HOKKAIDO

牧場帖

一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。
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名馬録

この世代(生まれ年)

スライダーを動かすと、その世代に生まれた馬を獲得賞金の多い順で表示します。

名馬録
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メジロマックイーンのイメージビジュアル
メジロマックイーンMejiro McQueen
Mejiro McQueen

メジロマックイーン

通算成績21戦12勝

獲得賞金99,810万円

生年月日 1987.04.03(昭和62年)毛色 芦毛

全成績

主要戦績(抜粋)・新しい順
メジロマックイーンの成績一覧
年月日着順レースコース人気騎手タイム上り3F映像
1 GII京都大賞典 京都 芝2400 1人気 武豊 2:22.7 上り35.7
1 GI宝塚記念 阪神 芝2200 1人気 武豊 2:17.7 上り38.0映像
2 GI天皇賞(春) 京都 芝3200 1人気 武豊 3:17.5 上り36.8映像
1 GII産經大阪杯 阪神 芝2000 1人気 武豊 2:03.3 上り49.0
1 GI天皇賞(春) 京都 芝3200 2人気 武豊 3:20.0 上り48.2映像
1 GII阪神大賞典 阪神 芝3000 1人気 武豊 3:13.5 上り48.9
2 GI有馬記念 中山 芝2500 1人気 武豊 2:30.8 上り35.6映像
4 GIジャパンカップ 東京 芝2400 1人気 武豊 2:25.3 上り34.9映像
18(降) GI天皇賞(秋) 東京 芝2000 1人気 武豊 2:02.9 上り37.4映像
1 GII京都大賞典 京都 芝2400 1人気 武豊 2:26.5 上り47.1
2 GI宝塚記念 京都 芝2200 1人気 武豊 2:13.8 上り47.6映像
1 GI天皇賞(春) 京都 芝3200 1人気 武豊 3:18.8 上り47.7映像
1 GII阪神大賞典 中京 芝3000 1人気 武豊 3:07.3 上り35.4
1 GI菊花賞 京都 芝3000 4人気 内田浩一 3:06.2 上り47.5映像
2 嵐山S 京都 芝3000 1人気 内田浩一 3:06.6 上り48.4
1 大沼S 函館 芝2000 1人気 内田浩一 2:04.5 上り38.2
1 木古内特別 函館 ダ1700 1人気 内田浩一 1:47.3 上り37.6
2 渡島特別 函館 ダ1700 1人気 内田浩一 1:46.6 上り38.9
3 あやめ賞 京都 芝2200 1人気 村本善之 2:17.5 上り49.9
2 ゆきやなぎ賞 阪神 芝2000 1人気 村本善之 2:04.6 上り51.3
1 4歳新馬 阪神 ダ1700 2人気 村本善之 1:47.7 上り49.9

血統

金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ
メジロマックイーンの血統表(左から親・祖父母・曽祖父母)
メジロティターンメジロアサマパーソロンPartholon
スヰートSweet Sixteen
シエリルCherylスノッブ
Chanel
メジロオーロラリマンドRemandAlcide
Admonish
メジロアイリスヒンドスタン
アサマユリ
STORY

旅程 — この馬の物語

1987年生まれの芦毛の牡馬。父メジロティターン、母メジロオーロラ。主な勝ち鞍は菊花賞・天皇賞(春)・宝塚記念。

遺言 ― 目白の名と、オーロラの62

1982年の秋、メジロティターンが天皇賞(秋)を日本レコードで勝った。父はメジロアサマ。1970年の同じレースの勝ち馬である。父子二代の天皇賞制覇だった。 馬主は北野豊吉。北野建設を興した人で、東京・目白の自宅にちなんで冠名を「メジロ」とした。1961年、その名を付けた馬が東京優駿でハナ差の二着に敗れて以来、メジロで日本一になると決めていた。1967年に伊達へ牧場を開き、自分の名で走った馬を種牡馬にして自分の繁殖牝馬に付ける、という生産をはじめる。狙いははっきりしていた。天皇賞である。 1984年2月16日、北野は妻ミヤと息子たち、牧場の岩崎伸道を自宅に呼んで言った。 「メジロティターンの子供で、父仔三代の天皇賞馬を出せたら、思い残すことはない」[^1] 翌朝、結婚式へ出かける支度の最中に倒れ、そのまま亡くなった。八十歳。言葉は遺言になった。 1986年、種牡馬三年目のメジロティターンは十六頭の牝馬と交配する。そのうちの一頭が、浦河の吉田堅牧場に預けられていたメジロオーロラだった。父はリマンド、母の母はアサマユリ。メジロの軸になっていた牝系の牝馬で、競走馬としては栗東の池江泰郎厩舎から二十四戦して一勝しかしていない。牧場長の武田茂男は、長い距離を走る馬を作るには長い距離の血同士を掛けるのが早いと考えていた。五代前まで遡っても共通の祖先がいない配合でもあった。 翌1987年4月3日、その牧場で芦毛の牡馬が生まれる。オーロラの初仔は、前の年の菊花賞を勝ったメジロデュレンだった。生まれた仔は、クラシック優勝馬の半弟という肩書を最初から持っていたことになる。昭和六十二年生まれなので、牧場では「オーロラの62」と呼ばれた。 その年のメジロ牧場の命名規則は「海外の著名人」、牡馬は「アメリカのヒーロー」である。三十二頭いた同期のうち、最も期待されたのはリアルシャダイとシェリルの仔で、陸上のカール・ルイスからメジロルイス。二番手の「輝光」は野球のノーラン・ライアンからメジロライアン。三番手のオーロラの62には、俳優のスティーブ・マックイーンの名が回ってきた。番外扱いだった「輝峰」には、ゴルファーのアーノルド・パーマーの名が与えられている。

出典:ウィキペディア日本語版「メジロマックイーン」(北野豊吉の言葉の初出は『優駿』2002年5月号55頁)、https://ja.wikipedia.org/wiki/メジロマックイーン 、閲覧日:2026年8月3日。

三勝馬の菊花賞

池江泰郎は1941年、宮崎の生まれ。騎手時代は先行策を得意として「逃げの池江」と呼ばれ、三千二百七十五戦して三百六十八勝を挙げたが、八大競走には手が届かなかった。1978年に鞍を降り、翌年、栗東に厩舎を開く。1986年、メジロオーロラの初仔メジロデュレンが菊花賞を勝ち、これが騎手と調教師を通じて初めての大レースになった。オーロラの62は、その兄の縁で、生まれる前から池江厩舎に入ることが決まっていた。 骨の充実が遅かった。厩舎に入ってからも前膝にソエが出て、デビューは四歳の二月までずれ込む。1990年2月3日、阪神のダート1700メートル。鞍上は兄デュレンの主戦だった村本善之。二着に一馬身四分の三、三着以下には十馬身の差をつけて勝った。 そのままダービーを目指して芝に替えたが、ゆきやなぎ賞は二着、あやめ賞は三着。ソエは治りきっていなかった。池江は春を捨てて秋に賭ける。菊花賞に出るには三勝馬では足りない。夏の函館で二つ勝ち、京都の芝3000メートルの嵐山ステークスで三つ目を積む。兄デュレンが四年前に通った道と、まったく同じ順路だった。 函館では村本が乗れず、厩舎所属でデビュー三年目、二十二歳の内田浩一に手綱が渡る。渡島特別はアタマ差の二着。木古内特別を勝ち、翌週の大沼ステークスに連闘で臨んで、これも勝った。 10月13日、嵐山ステークス。一番人気。先行して直線を向いたが、勝負どころで前が開かない。残り百メートルでようやく外へ出したときには、ミスターアダムスの背中が遠かった。二着。賞金を積み損ねた。 トライアルの京都新聞杯へ回れば、五着以内で出走権が取れる。池江はそれをしなかった。三勝馬のまま登録して、他の馬が抜けるのを待つ。回避が続き、木曜の調教のあとにもう一頭が消えて、抽選さえ要らなくなった。 鞍上を戻すかどうかで揉めた。前が開かなかったのは若手の判断だという声がある。池江は馬主に掛け合い、内田を降ろさなかった。 11月4日、菊花賞。雨で重馬場。仮柵が動いた直後で、内の方だけ路盤の良い帯が残っていた。皐月賞馬もダービー馬も不在で、一番人気はメジロライアン、次いでセントライト記念を勝ったホワイトストーン。この二頭は単枠指定を受け、ライアンは八枠十八番、ホワイトストーンは一枠一番を引く。マックイーンは二枠二番の四番人気だった。 二枠二番から先行して、平均ペースの前をうかがう。二周目の三コーナーの坂で先頭のオースミロッチに並びかけ、下りきったところで抜け出す。大外を回ったライアンは早々に脱落し、最内から追ったホワイトストーンは差を詰めたが、届く勢いではない。一馬身四分の一差。重賞に初めて出た馬が、そのままGIを勝った。兄弟での菊花賞制覇は、史上三組目である。

三人目の鞍上 ― 一九九一年四月二十八日

有馬記念は使わなかった。発表された理由は食欲不振だったが、それは方便で、実際には池江が四歳のうちに古馬とやり合わせたくなかった。馬主側の目標も、暮れの中山ではなく春の京都にあった。 年が明けて1月5日、池江は内田を金杯(西)でメジロマーシャスに乗せる。二番人気。三コーナーで落馬した。父子三代の懸かる春に、池江は所属騎手を降ろし、武豊を呼ぶ。二十二歳。1989年をイナリワン、1990年をスーパークリークで、天皇賞(春)を二年続けて勝っていた男である。 3月10日、中京で行われた阪神大賞典。テン乗りの武は道中で行きたがる馬をなだめ、三コーナーから動いてゴーサインを直線で捉えた。一馬身半差。三分七秒三はコースレコードだった。 4月28日、天皇賞(春)。菊花賞で一、二、三着を分けた三頭が揃い、三頭とも単枠指定を受ける。同じレースで三頭が指定されたのは史上二度目だった。人気は割れなかった。マックイーンが1.7倍、あとの二頭は四倍台である。 この日、京都のパドックに一枚の横断幕が掲げられている。「芦毛伝説第三章」。二つの意味が掛けてあった。芦毛は走らないと言われながら天皇賞を勝ったメジロアサマ、メジロティターンに続く三代目という意味と、タマモクロスオグリキャップに続いて芦毛が主役に立つ三代目という意味である。 十六番人気のメジロパーマーが逃げた。マックイーンは好位、ホワイトストーンが先行、ライアンは後方。三コーナーの上りと下りで先頭が射程に入り、直線を向くとすぐ抜け出した。外からホワイトストーン、内からライアンが伸びてきたが、前を脅かすほどではない。二着に入ったのは七番人気のミスターアダムスだった。半年前の嵐山ステークスで、直線の進路を探しているうちに取り逃がした相手である。今度は二馬身半つけて、先に決勝線を通った。 メジロアサマ、メジロティターン、メジロマックイーン。父子三代の天皇賞制覇が成った。北野豊吉はその日、遺影になって競馬場にいる。表彰式では妻ミヤの胸に抱かれ、記念撮影では、馬上の武が高く掲げた右手の中にいた。武豊はこれで、天皇賞(春)を三年続けて勝ったことになる。 六週間後、京都の宝塚記念。距離は2200メートルで、そのレコードを持っているのはメジロライアンだった。三コーナーの下りでライアンが先頭に立ち、外から追ったマックイーンは直線で突き放される。差は一馬身半。メジロの馬が一着二着を占めたのは、1971年のメジロムサシとメジロアサマ以来、二十年ぶりだった。

第二コーナー ― 一九九一年十月二十七日

秋は京都大賞典から。七頭立ての1.1倍に応え、二着に三馬身半をつけて勝つ。次は東京、天皇賞の春秋制覇である。 雨が降り続いて、当日の馬場は不良になった。渋った馬場を苦にしないことが買われ、単勝は1.9倍。七枠十三番。 東京の2000メートルは、発走してほどなく第二コーナーに入る。ほとんど直角に近い曲がりである。プレクラスニーが逃げ、ホワイトストーンが二番手につけた。三番手は、末脚の利かない不良馬場では絶好の位置である。同じ場所を、内にいる馬たちも欲しがっていた。十三番から前を取りにいったマックイーンは、彼らと張り合いながら、コーナーを回るために内へ切れ込む。 押し込められた馬群は、そこで限界に達した。メイショウビトリアがつまずき、ムービースターは行き場を失う。プレジデントシチーは後ろへ弾かれて転倒しかけ、鞍上の本田優は落馬寸前まで追い込まれた。 レースはそのまま進む。直線でホワイトストーンが脱落し、プレクラスニーも抵抗できず、マックイーンは六馬身離して先頭でゴール板を過ぎた。二分二秒九。第二コーナーを通過したときから、審議のランプが灯っていた。 裁決の結論は、妨害を受けた三頭のうち最も損害の大きかった馬の後ろまで下げる、というものである。プレジデントシチーはそれ以降まったく競馬にならず、十八頭立ての最下位で入線していた。その一つ上に繰り上がり、マックイーンが最下位になる。中央競馬のGIで一位入線馬が降着になったのは、これが初めてだった。鞍上には十月二十八日から十一月十七日までの騎乗停止が科された。 勝ったつもりでウイニングランをして、裁決室に呼ばれるまで、当人はこの結末を知らなかった。悪いことをしたと思っていたらガッツポーズもウイニングランもしない、パトロールフィルムを見せられて初めて自分の非に気づいた——武はのちにそう説明している。翌日のスポーツ紙は騎乗ミスを大きく責めた。あの位置は誰もが欲しがる場所で、そこへ最短距離で入っていった代償を、隣を走っていた三頭が払ったのである。盾は取り上げられたのではない。内へ切れ込んだ自分の一手で、手放したのだ。 一か月後のジャパンカップは、最下位に落とされたばかりの馬が一番人気になった。単勝支持率41.4パーセントは、当時のジャパンカップで最も高い。内の好位を取ったが直線で前が開かず、外を回ったゴールデンフェザントらに交わされて四着。暮れの有馬記念は、ツインターボの大逃げで前半の1000メートルが五十九秒〇という速い流れになった。三コーナーで外へ持ち出して進路を作り、直線で先に抜け出したプレクラスニーとダイタクヘリオスを捉えにかかる。そこへ、その二頭の間を割って十四番人気のダイユウサクが伸びてきた。レコードで抜け去られ、一馬身四分の一差の二着。 秋に一つも勝てなかったこの馬に、有馬記念のファン投票は十五万五千票あまりを投じて一位に選んでいる。年末のJRA賞では、最優秀五歳以上牡馬に百七十六票中百三十四票が集まった。年度代表馬は、その年に皐月賞と東京優駿を勝ったトウカイテイオーだった。

天までも ― 一九九二年四月二十六日

始動は3月15日の阪神大賞典。雨で稍重の六頭立てを、道中マークしてきたカミノクレッセに五馬身、三着以下には十馬身以上をつけて勝った。武豊の二十三歳の誕生日である。 トウカイテイオーが春の京都に来た。前の年に皐月賞と東京優駿を勝ち、直後の骨折で菊花賞に出られず、無敗のまま古馬になった馬である。父はシンボリルドルフ。その父はパーソロン。マックイーンの父系も、パーソロンに遡る。 頭文字を取ってTM対決と呼ばれ、やがて世紀の対決と呼ばれた。前哨戦の調教で、テイオーの鞍上・岡部幸雄が言った。距離に関係なく地の果てまでも駆けられる、と。それを聞かされた武豊が返す。 「こちらは天までも駆けられる」[^1] 十四頭が出走したが、単勝の八割以上をこの二頭が分け合った。 発走の直前、担当厩務員の早川清隆が、右前脚の蹄鉄が四分の一ほど欠けているのに気づいた。一分前に武が馬から降り、蹄鉄が打ち替えられる。ゲートが開いたのは、定刻の八分後だった。 メジロパーマーが逃げた。ペースは上がらない。二頭は中団に並んで進み、やがてマックイーンのほうが少し前になった。 京都の3200メートルは、三コーナーに坂がある。二周目のその坂に差しかかったところで、武は後ろを振り返り、テイオーの位置を目で確かめた。 そこから外を回して上がっていく。上りで押し上げ、下りで加速する。まくり、という。前の馬を内で待つのではなく、外からまとめて抜き去りにいく脚の使い方だ。すぐ外にテイオーが張り付いていた。二頭は並んだまま、最終コーナーを回る。 直線に入って、いくらも進まないうちに、外の馬の脚色が変わった。テイオーが下がりはじめる。マックイーンは追われ直すこともなく前へ出て、そのまま離した。 三分二十秒〇。前の年に自分が同じ舞台で出した時計より、一秒二遅い。それだけ流れの緩い、末脚の切れを問うはずのレースだった。その緩みを、自分から外を回って壊しにいって、独りで勝った。二着カミノクレッセに二馬身半。テイオーは九馬身ほど後ろの五着で入っている。 天皇賞(春)を二年続けて勝った馬は、それまで一頭もいなかった。

出典:ウィキペディア日本語版「メジロマックイーン」(武豊の発言の初出は『優駿』2009年3月号25頁)、https://ja.wikipedia.org/wiki/メジロマックイーン 、閲覧日:2026年8月3日。

あと一ミリ

宝塚記念の一週間前、6月7日。調教中に左の第一指節種子骨を折った。競走能力を失う例が多く、治っても再発しやすい骨である。池江は後に、折れた場所があと一ミリでもずれていたら復帰は無理だったと語っている。 厩舎には、回復を祈る折り鶴が何万と届いた。泣きながら電話をかけてくる人もいたという。惜敗を重ねて判官贔屓の人気を集めた同期のライアンに比べ、この馬は「強いばかりで面白みがない」と書かれることがあった。そう書かれていた馬の厩舎に、鶴が積み上がっていく。 洞爺村のメジロ牧場で放牧に出し、函館を経て栗東へ戻した。年末の有馬記念に間に合う状態にはなったが、池江が見送る。実戦から遠ざかったのは十一か月だった。 七歳の春。目標は天皇賞(春)の三連覇に置かれる。それまで平地のコースでしか調教していなかったこの馬が、初めてプールに入れられ、初めて坂路に上げられる。坂路では言うことを聞かず、三十分立ち止まったままのこともある。復帰は無理だと書く新聞もあった。 阪神大賞典は見送り、4月4日の産経大阪杯で戻ってきた。馬体重は十一か月前より十四キロ重い。2000メートルは走ったことのない距離である。単勝はナイスネイチャと同じ2.4倍で、票数の差だけで辛うじて一番人気になった。逃げるラッキーゲランの二番手につけ、最終コーナーで促されもせずに先頭へ出て、直線で突き放す。ナイスネイチャに五馬身。二分三秒三はコースレコードだった。

三分の遅れ ― 七歳の春と夏

4月25日、天皇賞(春)。中二週での参戦だった。ゲートに入るのを嫌がり、発走が三分遅れた。 メジロパーマーが大逃げする。天皇賞(春)としては史上二番目に速いペースだった。マックイーンは三、四番手。すぐ後ろにライスシャワーがいて、ずっと背中を見ていた。二周目の三コーナーから押し上げると、ライスシャワーも一緒に上がってくる。前のパーマーは失速しない。三頭が横に並び、わずかにマックイーンが先頭で最終コーナーを回った。 直線の半ばで、ライスシャワーの脚色だけが違った。並ばれてから、抵抗はできなかった。二馬身半差の二着。三着メジロパーマーとは四分の三馬身しかない。三連覇は消え、武の天皇賞(春)五連覇も消えた。四着のマチカネタンホイザまでが、それまでのコースレコードを上回る時計で走っている。 武は力を出し切った上での負けだと言い、池江は完全なレースをしての負けで相手が一枚上だったと述べた。 6月13日、宝塚記念。ライスシャワーは放牧に出て、復帰予定だったトウカイテイオーはまた故障した。有力馬が次々に消え、注目は前年の勝ち馬メジロパーマーとの一騎打ちに絞られる。雨で内側が荒れ、パーマーは外を選んで逃げた。馬群がそれに倣い、マックイーンは三番手。三コーナーで前の二頭が脚を失い、代わって先頭に立つ。直線は独走で、追い込んだイクノディクタスに一馬身四分の三をつけた。 GI四勝目。宝塚記念は1991年のメジロライアン、1992年のメジロパーマーに続いて、メジロの三連覇になった。この賞は、祖父メジロアサマが1971年に二着、翌年六着、父メジロティターンが1982年に九着と、二代続けて取り逃していたものである。三代目が拾った。

大脱走 ― 来なかった秋

函館で夏を越し、秋は天皇賞(秋)に向かった。1991年は先頭でゴールして最下位に落とされ、1992年は骨折で出られなかったレースである。 10月10日、京都大賞典。メジロパーマーが逃げ、レガシーワールドが続く。マックイーンは中団の五番手から、三コーナーで促されもしないうちに差を詰めた。しきりに追われている相手に最終コーナーで並びかけ、そのまま交わす。レガシーワールドに三馬身半。二分二十二秒七は、前年の勝ち時計を一秒九縮めるコースレコードだった。七歳の秋である。当時、七歳といえば衰えていく年齢だった。ゴールして驚いた、この馬はまだ強くなっている、と武は言っている。 そのあと、こう続けた。 「この次の秋の天皇賞は、メジロマックイーンといっしょに東京競馬場のウイナーズサークルに立てるように頑張りますので、皆さん応援してください」[^1] 十七日後の10月27日、ウッドチップコースでの調教を終えた馬の歩様が乱れた。左前脚の繋靭帯炎。戻すには半年以上かかる。種牡馬のシンジケートはすでに組まれていた。二十九日、引退が発表される。天皇賞(秋)は、その二日後だった。 その秋の天皇賞(秋)はヤマニンゼファーが勝つ。京都大賞典でマックイーンが2000メートルを通過した時計は、その勝ち時計より速かった。体調に問題がなければ百パーセント勝っていた、と武は後に述べている。 11月21日、京都競馬場。マイルチャンピオンシップの日の昼休みに引退式が行われた。前夜から並ぶファンがいて、開門が一時間繰り上げられている。異例の措置としてパドックを一周してから馬場に入った。付けたのは、北野豊吉の遺言が果たされた1991年の天皇賞(春)と同じゼッケンと帽色である。脚を痛めているので、歩くことしかできない。 場内には関西のGIの入場曲が流れ、途中から別の曲に変わった。スティーブ・マックイーンが主演した『大脱走』のテーマだった。その曲に送られて、馬は競馬場を出ていった。 翌1994年3月、選考委員会の全会一致で顕彰馬に選ばれる。1993年が終わった時点で、日本の競走馬が生涯に稼いだ賞金の最高額は、この馬のものだった。二番目がオグリキャップである。

出典:ウィキペディア日本語版「メジロマックイーン」(武豊の発言の初出は『優駿』1993年12月号152頁)、https://ja.wikipedia.org/wiki/メジロマックイーン 、閲覧日:2026年8月3日。

母の父 ― 三代目のあとに

種牡馬になった。ノーザンダンサーもロイヤルチャージャーも持たない異系という点が注目され、六十株のシンジケートは一日で埋まる。初年度は内国産の新種牡馬で最も多い九十八頭、五年目には百四十九頭の牝馬と交配した。 産駒は重賞まで届いた。ヤマニンメルベイユが中山牝馬ステークスとクイーンステークス、ディアジーナがクイーンカップとフローラステークス。ただしJRAのGIには手が届かなかった。天皇賞を勝てば父系四代になる。メジロ牧場は一線級の繁殖牝馬を送り込み続けたが、最も近づいたのは2008年天皇賞(春)のホクトスルタンの四着だった。 時代が合わなかった。サンデーサイレンス、トニービン、ブライアンズタイムの産駒が入れ替わりにデビューし、市場は早く仕上がるスピード馬を求めた。晩成のステイヤーに出番はない。2004年、シンジケートが解散し、荻伏へ移る。 早来にいたころ、放牧地の隣がサンデーサイレンスだった。気の荒いサンデーは初め威嚇したが、こちらは相手にしなかった。やがて威嚇はやみ、二頭は「恋人」と呼ばれるほどになる。サンデーが衰えて死に近づいた頃には、馬房が隣同士にされていた。 2006年4月3日午後五時十五分、心不全。十九歳。生まれた日と同じ日だった。翌月、洞爺湖町のメジロ牧場で、池江や北野雄二を含む百人ほどが集まって法要が営まれている。 血のほうは、そこから動いた。 わずかに残っていた産駒の牝馬に、ステイゴールドが配される。気性の荒い二頭を掛ければ荒い仔が出るだけだと、馬産地では敬遠されていた組み合わせだった。白老ファームがそれをやったのは、生まれる仔を池江泰寿の厩舎に入れることが決まっていたからである。泰寿の父・泰郎は、マックイーンとステイゴールドの両方を管理した調教師だった。 2004年に生まれた牡がドリームジャーニー。2006年の朝日杯フューチュリティステークスを勝ち、2009年に宝塚記念と有馬記念を続けて勝つ。2008年に生まれた弟がオルフェーヴル。2011年に皐月賞、東京優駿、菊花賞を制し、暮れの有馬記念も勝った。日高の別の牧場でも、ポイントフラッグという牝馬にステイゴールドが付けられ、2009年に芦毛の牡が生まれた。ゴールドシップ。2012年の皐月賞と菊花賞と有馬記念、それから宝塚記念を三度勝つ馬である。 同じ父と同じ母の父の組み合わせでクラシックを四つ続けて勝った例は、それまでなかった。人はこれを黄金配合と呼んだ。 池江泰郎は2011年の二月、七十歳の定年で厩舎を閉じる。騎手時代に大レースを勝てず、調教師になってメジロデュレンで初めて勝ち、その半弟で天皇賞を二つ勝ち、のちにディープインパクトを託された人である。厩舎を畳んだ八か月後の10月23日、息子の管理するオルフェーヴルが三冠を決めた。父と息子が三冠馬を出した例は、これが初めてだった。泰寿は、父があっての自分でありこの三冠だという意味のことを語っている。 2015年5月3日、京都の芝3200メートル。ゴールドシップが天皇賞(春)を勝った。マックイーンが1991年と1992年に勝ったのと、同じ競馬場の同じ距離である。四代目の産駒では届かなかった盾が、母の側を回って戻ってきた。 1991年の春、京都のパドックに一枚の横断幕が掲げられた。芦毛伝説第三章。その章がどこで終わるのかを、書いた学生は知らなかった。二十四年後の京都、同じ三千二百メートルの決勝線を、また一頭の芦毛が先頭で通っている。

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