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ミホノブルボン
通算成績8戦7勝
獲得賞金4億3,730万円
生年月日 1989.04.25(平成元年)毛色 栗毛性 牡
全成績
主要戦績(抜粋)・新しい順| 年月日 | 着順 | レース | コース | 人気 | 騎手 | タイム | 上り3F | 映像 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2 | GI菊花賞 | 京都 芝3000 | 1人気 | 小島貞博 | 3:05.2 | 上り47.3 | 映像 | |
| 1 | GII京都新聞杯 | 京都 芝2200 | 1人気 | 小島貞博 | 2:12.0 | 上り47.7 | — | |
| 1 | GI東京優駿 | 東京 芝2400 | 1人気 | 小島貞博 | 2:27.8 | 上り37.1 | 映像 | |
| 1 | GI皐月賞 | 中山 芝2000 | 1人気 | 小島貞博 | 2:01.4 | 上り37.1 | 映像 | |
| 1 | GIIフジTVスプリングS | 中山 芝1800 | 2人気 | 小島貞博 | 1:50.1 | 上り37.6 | — | |
| 1 | GI朝日杯3歳S | 中山 芝1600 | 1人気 | 小島貞博 | 1:34.5 | 上り35.5 | 映像 | |
| 1 | 3歳500万下 | 東京 芝1600 | 1人気 | 小島貞博 | 1:35.1 | 上り35.6 | — | |
| 1 | 3歳新馬 | 中京 芝1000 | 1人気 | 小島貞博 | 0:58.1 | 上り33.1 | — |
血統
金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ| 父マグニテュードMagnitude | Mill Reef | Never Bend |
| Milan Mill | ||
| Altesse Royale | セントクレスピンSaint Crespin | |
| Bleu Azur | ||
| 母カツミエコー | シャレーChalet | Luthier |
| Christiana | ||
| ハイフレーム | ユアハイネスYour Highness | |
| カミヤマト |
旅程 — この馬の物語
1989年生まれの栗毛の牡馬。父マグニテュード、母カツミエコー。主な勝ち鞍は朝日杯3歳S・皐月賞・東京優駿。
代わりに選ばれた血
1989年4月25日、北海道門別町の原口圭二牧場で、一頭の栗毛の牡馬が生まれた。腰の幅が広く、産み落とすのに引っかかるほど大きな仔だった。母カツミエコーの初仔である。 この馬の血は、二度の「代わり」でできている。祖母ハイフレームには種牡馬ダンディルートを付けたかった。家族経営の牧場に払える種付け料ではなかった。代わりに、同じ父を持つシャレーが選ばれる。そうして生まれたのがカツミエコーで、南関東で12戦1勝。その初年度の相手にはミルジョージを考えたが、一回100万円を超える種付け料にやはり手が届かない。代わりに選ばれたのが、同じミルリーフ産駒で、二年間で50万円のマグニテュードだった。一流に届くかどうかという父と、三流と呼ばれても仕方のない母の父。当時、この配合はそう評されていた。 牧場から中央競馬に登録された馬は、それまで五頭ほどしかなかった。生産馬を中央に送り、未勝利戦を勝つ。それが当面の目標だった。この馬は750万円で美浦商事に買われ、馬主の冠名「ミホノ」にフランスのブルボン王朝を継いで、ミホノブルボンと名付けられる。 血をさかのぼると、四代母——母の母の母の母——にコロナという牝馬がいる。この牝系はいくつもの枝に分かれ、別の枝からは同じ1989年生まれのマチカネタンホイザが出た。二頭はのちに、朝日杯3歳ステークスから菊花賞まで、同じ四つのGIをそろって走ることになる。
坂路を四本
栗東トレーニングセンターに坂路コースができたのは1985年である。戸山為夫は、それを最初に使い倒した調教師の一人だった。安い馬を買い、鍛えて強くする。長いあいだ、彼はその方法で戦ってきた。 戸山は初仔を欲しがった。初仔のほうが調教に耐える丈夫な体になる、という持論があったからだ。マグニテュードの仔は小柄になりやすいと言われ、初仔ならなおさら小さいはずだった。ところがこの馬は大きかった。戸山は気に入り、当歳のうちに自分の厩舎行きを決める。飼料にアルファルファを使え、カルシウムはこの品種を、と細かい指示が門別へ飛んだ。 入厩は1991年4月。他の厩舎が坂路を三本で切り上げるところ、この馬には四本が課された。耐えられたのは、よく食べたからである。厩務員と調教助手を兼ねた安永司は、飼い葉を食べているこの馬に近づくのが怖かった、と話している。 八月、坂路の500メートルを29秒9で駆け上がった。古馬のオープン馬でも30秒台という区間である。調教スタンドの戸山は声を張り上げた。 9月7日、中京の芝1000メートル。他馬がゲート入りを渋って長く待たされ、両隣から挟まれ、三角では十三頭の十番手にいた。直線で外へ出すと、最後の600メートル——上がり三ハロンという——を33秒1で走り、残り50メートルで先頭に立つ。走破時計58秒1は、その世代のコースレコードを更新するものだった。上がり二位の馬より1秒6速い。 11月の東京、芝1600メートルは六馬身差。そして12月8日、中山の朝日杯3歳ステークス。前を行くマイネルアーサーに並びかけて二頭で先頭を進み、直線でその馬が下がると、外からヤマニンミラクルが来た。ハナ差。三戦三勝でGI馬になった。 小島貞博、四十歳。平地では初めてのGIだった。戸山にとっても、グレード制が入ってから初めてのGIである。 戸山は、馬を預ける馬主に一つ条件を出していた。鞍上は自厩舎の騎手にする——どんな強い馬が来ても、有力騎手を頼まない。騎手時代に乗る馬がなくて泣いた男の、それが信念だった。日本一の馬の背に四十歳の中堅騎手が座り続けた理由は、そこにある。 この年、門別では母カツミエコーが二年続けて受胎に失敗していた。空胎の繁殖牝馬を抱える余裕は、小さな牧場にはない。手放そうにも、父シャレーという血統に買い手はつかなかった。処分の話が出たところを、牧場生産馬だからと圭二の妻が反対し、一シーズンだけ先延ばしになる。その冬に、初仔が中山でGIを勝った。
敵は同世代ではなかった
年末のJRA賞で最優秀3歳牡馬に選ばれると、年が明けてからのこの馬をめぐる話題は、強さではなく距離になった。父マグニテュードの代表産駒エルプスは桜花賞を勝ったが、オークスは15着、エリザベス女王杯は11着。血は短いところ向きだ、と見られていた。 戸山の見方は逆だった。サラブレッドはみなスプリンターである、と彼は言う。ステイヤーでも全力で走れるのは五百メートルほどで、あとは騎手が抑えているから三千メートルが持つのだ、と。ない物ねだりをせず、速さという才能だけを伸ばす。それが答えだった。 始動はシンザン記念のはずが、1月の坂路調教で左腰を捻挫して回避。3月29日のスプリングステークスが、200メートル延びた1800メートルへの答え合わせになった。ここで走らなければ短距離路線へ戻す、と戸山は宣言していた。無敗のGI馬でありながら、この日は1番人気を他馬に譲っている。 重馬場で、しかもペースは速い。前で行った馬が潰れる流れだった。それでも後ろは届かず、直線では差が開く一方になり、七馬身。この勝ちっぷりを見たサンケイスポーツの石田敏徳が「栗毛の超特急」と書いた。 4月19日、皐月賞。単勝1.4倍。スタートから三歩で先頭を奪い、促されもせずに逃げた。一角で外に張ったのを抑え、二角では小島が口笛を吹いている。踏み出しに合わせて吹くと、この馬は落ち着いた。 前半1000メートルは59秒8。自分で作った速い流れである。三角から四角にかけて後ろが動いたが、並びかけるところまでは来ない。小島は最終コーナーで三度うしろを振り返った。位置取りに自信が持てなかったからだ。直線で二馬身半を突き放し、ナリタタイセイの前でゴールを過ぎた。 引き揚げてくる鞍上に、中山から小島コールが起きた。二十二年目、初めてのクラシックである。「僕を男にしてくれたミホノブルボンにお礼を言いたい」[^1]。この日、彼は初めて嬉し涙を流したという。
出典:ウィキペディア日本語版「ミホノブルボン」(小島貞博の談話の初出は日本中央競馬会『優駿』1992年6月号38-39頁)、https://ja.wikipedia.org/wiki/ミホノブルボン 、閲覧日:2026年8月3日。
府中の四馬身
距離はさらに400メートル延びる。戸山は坂路を五本にしようとしたが、消耗が激しく四本に戻した。5月15日、右前脚の橈骨に骨膜炎の兆候。二日だけプール調教に切り替えた。18日の各紙は体調不安を書き立てたが、翌日には坂路へ戻っている。 小島は逃げやすい内枠の偶数番を望んだ。引いたのは七枠十五番。それまで優勝馬の出たことのない、外の奇数番だった。単勝2.3倍。皐月賞を1.4倍で圧勝した無敗馬の数字としては低い。恐れられていたのは残り十七頭ではなく、2400メートルという距離のほうだった。 5月31日、稍重の東京。ゲートが開くと内の馬を制して先頭に立ち、一角で二、三馬身、二角で早くも独走になる。1000メートル通過は61秒2。皐月賞より1秒4遅い。自分の呼吸で行かせている。三角から四角で後続が押し寄せたが、直線で促されるとまた離れた。府中の坂を上がりながら差を広げ、四馬身。2分27秒8だった。 皐月賞もダービーも、上がり三ハロンは37秒1である。逃げて、なお同じ脚を残していた。 無敗のダービー馬は史上八頭目。無敗の二冠馬は、前年のトウカイテイオーに続く史上五頭目になった。二着に入ったのは十六番人気のライスシャワーで、馬番連勝は2万9580円ついている。 中央で未勝利戦を勝つのが当面の目標だった牧場から、無敗のダービー馬が出た。
人間の欲
夏は北海道で過ごし、9月に栗東へ戻る。10月18日、菊花賞のトライアルである京都新聞杯。GIIにもかかわらず京都競馬場は開門前から行列ができ、七万人が入った。単勝1.2倍。三角の下りでライスシャワーが一馬身後ろまで迫ったが、そこまでだった。一馬身半差、2分12秒0。芝2200メートルの中央競馬レコードを0.1秒縮める時計である。ただし小島は、ゴール前は一杯で、促してもそれ以上は伸びなかったと明かしている。 11月4日の追い切りは坂路四本。二本目に29秒4で栗東の坂路レコードを更新し、四本目も同じ29秒4で上がってきた。バチが当たるくらい順調だ、と戸山は言った。プール調教の日には報道陣が四十人集まった。プールに来た人数として、それまでで最も多かった。 前年、無敗の二冠馬トウカイテイオーは骨折で菊花賞に出られなかった。今年は無事に立てる。三冠は手が届くところにあった。 記者会見には九十人が入った。そこで一人が聞いた。本質がスプリンターの馬を3000メートルに出すことに、どんな意味があるのか。 戸山は、ブルボン自身は走りたくないに決まっている、菊花賞に出すのは競馬に携わる人間の勝手だ、と前置きした。天皇賞は来年でも出られるが、このチャンスは一度きりだから、とも言った。そして——「出す意味といったら、『人間の欲』しかないと思います」[^1]。 このとき戸山為夫は、食道癌を患っていた。菊花賞のあと、しばらくして入院することになる。
出典:ウィキペディア日本語版「ミホノブルボン」(戸山為夫の談話の初出は日本中央競馬会『優駿』1992年12月号12-14頁)、https://ja.wikipedia.org/wiki/ミホノブルボン 、閲覧日:2026年8月3日。
淀、残り百メートル
11月8日、京都競馬場。三冠のかかった日に、十二万人が集まった。 逃げると宣言していた馬がいた。キョウエイボーガンである。前走の京都新聞杯では出遅れて先手を譲ったが、この日は違った。ゲートが開くと、その馬は迷わず前へ出た。 ミホノブルボンは二番手になった。この馬が他馬の背中を見ながら走ったのは、ハナ差で決着した朝日杯以来である。前に馬がいると行きたがる癖があった。小島は抑えた。前へ出ようとするたびに、抑えた。 最初の1000メートルは59秒7で過ぎていった。三千メートルの競走でこの数字は速すぎる。隊列は縦に伸びた。前を行く二頭は、長距離戦の中で短距離戦のような呼吸を刻んでいた。 二周目、京都の三角は下りになる。前の馬の脚が鈍った。三角から四角の中間で、ミホノブルボンはそれをかわして先頭に立つ。いつもの景色に戻った。自分の前には誰もいない。あとは押し切るだけである。 直線に向く。この競馬場に、府中のような坂はない。平らな四百メートルが、ただ長い。 残り百メートルを切ったところで、外から一頭が並んできた。ライスシャワー。春からずっとこの馬の後ろにいた、小柄な黒鹿毛である。 差し返す脚は、残っていなかった。一馬身と四分の一。 ゴールのあとの淀は、奇妙なほど静かだったという。勝った側の関係者は、拍手がなく、ブーイングのような雰囲気だったと語っている。小島も「今までにない、ちょっと何かおかしな雰囲気」[^1]と振り返った。 三着に入ったのはマチカネタンホイザである。同じ四代母を持つ二頭が、この日、勝てなかった側に並んだ。
出典:ウィキペディア日本語版「ライスシャワー」(小島貞博の談話の初出は松永郁子『名馬は劇的に生きる』講談社、2000年、109-110頁)、https://ja.wikipedia.org/wiki/ライスシャワー 、閲覧日:2026年8月3日。
戻らなかった坂路
次はジャパンカップのはずだった。追い切りの直前に右後肢の跛行が見つかり、出走を断念する。有馬記念も回避した。無敗の二冠が評価され、1992年のJRA賞年度代表馬に選ばれた。 年が明けて1月、右後脚の脛骨に骨膜炎。2月に放牧へ出て、4月には右後脚の第三中足骨を骨折した。坂路には戻れなかった。 1993年5月29日、日本ダービーの前日に戸山為夫が死んだ。癌による肝不全だった。六十一歳。厩舎は解散し、ミホノブルボンは鶴留明雄の厩舎へ、9月には松元茂樹の厩舎へ移る。安永司が一緒についていった。 その日、小島は翌日のダービーに乗るドージマムテキとともに東京競馬場にいた。騎乗を降りて先生のところへ行かせてほしいとJRAの職員に頼み、レースに乗ることが供養になると説得されて、東京に残った。 1994年1月19日、引退が発表される。2月6日、東京競馬場。ダービーと同じ「15」のゼッケンを着け、小島を背に、ミホノブルボンは芝の上を歩いた。八戦して、負けたのは一度きりだった。 種牡馬になったが、シンジケートは組まれなかった。地方競馬では重賞勝ち馬を出し、中央の重賞を勝つ産駒は出ないまま、やがて生まれ故郷へ帰る。原口圭二牧場から名を変えたその牧場で、圭二は自分の繁殖牝馬を四、五頭だけ付けた。処分されかけた母カツミエコーの血も途切れてはいない。半妹ダンシングエコーの子孫からはアベニンドリームが出て、ホッカイドウ競馬の北海優駿を勝った。
貼られた名前
戸山厩舎が解散すると、小島貞博の騎乗数は急に減った。一時は、調教をつける馬さえいなくなる。引退を考えていたところを支えたのが、同じ戸山門下の兄弟子・鶴留明雄である。1994年、鶴留厩舎のチョウカイキャロルでオークスを勝った。翌1995年にはタヤスツヨシで二度目のダービーを勝つ。2001年に調教師免許を取り、その会見には戸山の妻が並んで座った。2005年にはテイエムドラゴンで中山大障害を制し、騎手としても調教師としてもあの大障害を勝つ。戦後にデビューした騎手で、日本ダービーと中山大障害をそれぞれ二勝しているのは、この人だけである。2012年1月、六十歳で世を去った。 戸山は、菊花賞に出す意味は人間の欲しかない、と言った。天皇賞は来年でも出られるけれど、このチャンスは一度きりだから、と。彼はそれを馬の話として言ったはずだ。だが翌年の春、「来年」を持っていなかったのは馬ではなく、そう言った本人のほうだった。淀の三千メートルは、二人にとって最後の一度きりになった。 安い種付け料の代わりに選ばれた父と、代わりに選ばれた母の父。その組み合わせから生まれた馬は、鍛えた人よりも、乗り続けた人よりも長く生きた。2017年2月22日、生まれ故郷の牧場で、二十八歳の老衰。「坂路の申し子」も「サイボーグ」も、人間がこの馬に貼った名前である。貼った側が先にいなくなったあとも、貼られた側は、生まれた土の上にいた。
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