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ミスターシービー
通算成績15戦8勝
獲得賞金3億9,080万円
生年月日 1980.04.07(昭和55年)毛色 黒鹿毛性 牡
全成績
主要戦績(抜粋)・新しい順| 年月日 | 着順 | レース | コース | 人気 | 騎手 | タイム | 上り3F | 映像 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 5 | GI天皇賞(春) | 京都 芝3200 | 2人気 | 吉永正人 | 3:22.3 | 上り39.2 | 映像 | |
| 2 | GIIサンケイ大阪杯 | 阪神 芝2000 | 1人気 | 吉永正人 | 2:01.4 | 上り35.5 | — | |
| 3 | GI有馬記念 | 中山 芝2500 | 2人気 | 吉永正人 | 2:33.3 | 上り35.2 | 映像 | |
| 10 | GIジャパンカップ | 東京 芝2400 | 1人気 | 吉永正人 | 2:28.2 | 上り35.3 | 映像 | |
| 1 | GI天皇賞(秋) | 東京 芝2000 | 1人気 | 吉永正人 | 1:59.3 | 上り34.8 | 映像 | |
| 2 | GII毎日王冠 | 東京 芝1800 | 2人気 | 吉永正人 | 1:47.5 | 上り33.7 | — | |
| 1 | 八大競走菊花賞 | 京都 芝3000 | 1人気 | 吉永正人 | 3:08.1 | 上り38.2 | 映像 | |
| 4 | 京都新聞杯 | 京都 芝2000 | 1人気 | 吉永正人 | 2:03.2 | 上り36.8 | — | |
| 1 | 八大競走東京優駿 | 東京 芝2400 | 1人気 | 吉永正人 | 2:29.5 | 上り37.9 | 映像 | |
| 1 | 八大競走皐月賞 | 中山 芝2000 | 1人気 | 吉永正人 | 2:08.3 | 上り39.8 | 映像 | |
| 1 | 弥生賞 | 中山 芝1800 | 1人気 | 吉永正人 | 1:50.2 | 上り35.8 | — | |
| 1 | 共同通信杯4歳S | 東京 芝1800 | 1人気 | 吉永正人 | 1:49.5 | 上り37.4 | — | |
| 2 | ひいらぎ賞 | 中山 芝1800 | 1人気 | 吉永正人 | 1:50.4 | 上り36.2 | — | |
| 1 | 黒松賞 | 中山 芝1600 | 1人気 | 吉永正人 | 1:36.3 | 上り36.0 | — | |
| 1 | 3歳新馬 | 東京 芝1600 | 1人気 | 吉永正人 | 1:38.5 | 上り38.7 | — |
血統
金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ| 父トウショウボーイ | テスコボーイTesco Boy | Princely Gift |
| Suncourt | ||
| ソシアルバターフライSocial Butterfly | Your Host | |
| Wisteria | ||
| 母シービークイン | トピオTopyo | Fine Top |
| Deliriosa | ||
| メイドウ | アドミラルバードAdmiral Byrd | |
| メイワ |
旅程 — この馬の物語
1980年生まれの黒鹿毛の牡馬。父トウショウボーイ、母シービークイン。
とっておきの名
1980年4月7日、北海道浦河の岡本牧場で黒鹿毛の牡が生まれた。母シービークインが預けられていた牧場である。翌年の春、群馬県片品村の千明牧場へ移され、育成はそこで積まれた。 千明牧場(Chigira Bokujou)の生産馬には、頭文字を取った「シービー」が付く。その中で「ミスターシービー」という名だけは使われずに取ってあった。牧場を代表する牡が現れたときのための名前である。1937年の第六回日本ダービーに、初代のミスターシービーが出走している。結果は十着だった。二代目が同じレースを勝つのは、その四十六年あと、第五十回のことになる。 父トウショウボーイと母シービークインは、どちらも1973年の生まれで、同じ日にデビューしている。1976年1月31日、東京の新馬戦。勝ったのはトウショウボーイ、シービークインは五着だった。四着には、のちに天馬・テンポイントとともに一つの時代を分け合うグリーングラスがいる。 母は逃げ馬だった。牡を相手に毎日王冠と京王杯スプリングハンデキャップを勝ち、重賞を三つ取っている。その母の母メイドウは、1963年に千明牧場へダービーを持ち帰ったメイズイの姪にあたる。馬主で牧場代表の千明大作は、この配合について、強烈な逃げ馬をつくるつもりだったと当時の取材に答えている。 生まれてきたのは、日本の競馬でいちばん後ろから走る馬だった。
もっと吉永に乗るチャンスを
吉永正人は鹿児島の馬産家の次男である。曾祖父が明治のうちに興した、その一帯で最も古い牧場だった。中学を出る前に中央競馬会の騎手養成課程を受けて落ち、父の伝手で東京・松山吉三郎厩舎へ内弟子に入る。松山にとっては最初の門下生だった。1961年に免許を取り、その厩舎からデビューする。 しかし乗る数が伸びない。当時の松山厩舎は保田隆芳や野平祐二といった大騎手に騎乗を頼んでいて、若い内弟子に回る鞍は限られていた。体重の問題もあった。初騎乗のときは四十八キロの斤量に十日かけて絞り、それでも一・五キロ超過して戒告を受けている。雨の日に帽子のひさしから落ちてくる水がうまい、と彼は言った。減量の苦しさを表す言葉として、いまも引かれる。 乗り方は極端だった。最後方から追い込むか、でなければ逃げる。馬群の中で我慢する競馬をほとんどしない。追い込みは「吉永スペシャル」と呼ばれ、コニャックの等級をもじって「VSOP(ベリー・スペシャル・ワン・パターン)」とも揶揄された。理由を問われて、彼は人に迷惑をかけるのが嫌なのだと答えている。馬混みに入るとアクシデントが起きやすいから、逃げか追い込みが好きなのだ、と。 保田と野平が引退した七〇年代から、吉永は松山厩舎の主戦になった。追い込みのゼンマツ、逃げ馬シービークイン、白い稲妻シービークロス。個性の強い馬ばかりが手元に集まってくる。シービークインの重賞三勝は、すべてこの男が乗って挙げたものだ。母が毎日王冠を勝ったのは、彼が競馬記者・鈴木みち子と挙げる結婚式の二週間前だった。 それでも大きいレースには手が届かない。1979年ごろから「八大競走を勝てない騎手」と言われ始めた。ダービーと菊花賞と秋の天皇賞で二着を続けたモンテプリンスが無冠の帝王と呼ばれると、勝てない理由を鞍上の腕に求める声も出た。 この騎手をかばい続けた書き手が一人いる。寺山修司である。『優駿』の連載で、吉永のレースには必ずドラマがあると書き、他の名手にはない競馬の翳を持っていると書いた。そのうえで誌面から呼びかけた。「馬主各位。調教師各位。もっと吉永に乗るチャンスを与えてやって下さい」[^1] 1982年の春、吉永はモンテプリンスで天皇賞を勝つ。デビューして二十二年目、八大競走に乗ること五十四度目の初制覇だった。検量室では師匠の松山吉三郎が、正人、良かったなあ、と繰り返しながら涙を流していたという。
出典:寺山修司・志摩直人ほか『「優駿」観戦記で甦る菊花賞十番勝負』小学館、1998年、282-283頁(ja.wikipedia.org/wiki/吉永正人 経由で確認)、閲覧日:2026年8月4日。
形が決まるまで
競走名を与えられたミスターシービーが美浦へ入ったのは1982年の春である。厩舎は当初、母を管理していた松山吉三郎のところに決まっていた。吉三郎の都合で、息子・松山康久の厩舎へ変わる。鞍上には母の主戦がそのまま座った。以後、この馬が十五回ゲートに入るあいだ、手綱は一度も他人の手に渡っていない。 デビューは同年十一月、東京の芝千六百メートル。稍重の馬場を先行し、二着に五馬身をつけた。年末の黒松賞は出遅れてから前を追う形になり、クビ差の辛勝である。三戦目のひいらぎ賞では発馬機の中で暴れ、また出遅れた。前走で前を追って消耗したことを踏まえ、吉永は今度は追わなかった。そのまま後方に置いて脚を溜める。ウメノシンオーにクビ差届かず、初めての黒星になった。 負けた一戦が、この馬の形を決めた。 年が明けた二月の共同通信杯四歳ステークス。後方から第三コーナーで位置を上げ、ひいらぎ賞で先着を許したウメノシンオーをアタマ差で捉える。重賞初制覇だった。三月の弥生賞では内埒沿いから馬群の間を縫って上がり、上がり三ハロン(最後の六百メートル)三十五秒八を計時する。そこまでで最も速い脚だった。
不良馬場と、第五十回
4月17日の皐月賞は雨になった。馬場は不良。前で運ぶ馬に有利で、後ろから行く馬には最も向かない条件である。 シービーは十六、十七番手にいた。向正面から動き出し、三コーナーを過ぎたあたりで中団まで押し上げる。最終コーナーでは、先頭を走るカツラギエースのすぐ後ろに付けていた。直線に入るなり先頭へ出て、追ってきたメジロモンスニーを半馬身抑える。吉永にとって初めてのクラシックであり、松山康久にとっては初めての八大競走だった。 5月29日、東京優駿。第五十回にあたる記念の一戦で、単勝は一・九倍。パドックで、この馬の顔の目印になっていたハミ吊りが切れた。新馬戦以来、装具なしで走ることになる。 当時のダービーには「ダービーポジション」という言い伝えがあった。二十頭を超える大所帯を、第一コーナーで十番手以内に付けていなければ勝てないという経験則である。シービーは出遅れ、先頭から二十馬身ほど離れた十七番手を進んだ。言い伝えの、はるか外側だった。 向正面の出口から進出を始め、三コーナーの出口では六番手まで来る。最終コーナーで外へ斜行してきた馬を避け、その拍子にさらに外の馬と接触し、後ろから伸びてきた馬の前を横切る形になった。体勢を立て直して先行勢を追い、内で粘るビンゴカンタを一気に交わす。一馬身四分の三。実況を担当したアナウンサーの盛山毅は「父を完全に超えました!」[^1]と叫んだ。 競走後、審議になった。優勝は動かない。ただし吉永には開催四日間の騎乗停止と、ダービー優勝騎手に贈られるトロフィーの剥奪という処分が下った。二着メジロモンスニーの鞍上・清水英次は、シービーの強さに脱帽だと語っている。 その二十五日前、五月四日に寺山修司が死んでいる。もっと吉永に乗せてやってくれと誌面に書いた男は、吉永がダービージョッキーになる日を見なかった。 夏は放牧に出さず、美浦に置いた。そこで固いものを踏んで蹄を痛め、痛みと暑さから夏風邪をひく。予定していたセントライト記念を諦め、関西へ移って京都新聞杯へ回った。10月23日、馬体は十二キロ増えていた。松山はのちに、あのときの馬は牛のようだったと表現している。流れは前が残るスローになり、勝ったカツラギエースから七馬身以上離された四着。二着以内を外したのは、これが初めてだった。
出典:江面弘也『名馬を読む』三賢社、2017年、173頁(ja.wikipedia.org/wiki/ミスターシービー 経由で確認)、閲覧日:2026年8月4日。
淀の坂
十一月十三日、京都。三千メートル。父も菊花賞では勝てておらず、距離が持たないという声があった。 ゲートが開くと、シービーは最後方に置かれた。前は速い。千メートルの通過が五十九秒四である。長距離戦の刻み方ではない。それでも吉永は動かなかった。 淀を一周する。二周目の第三コーナーへ向かう上り坂に差しかかったところで、馬が前へ行きたがる素振りを見せた。 吉永は、手綱を緩めた。 上りが終われば下りが来る。京都のこの下り坂は、ゆっくり下るものだと決まっていた。勢いがつきすぎれば四コーナーで外へ振られ、直線で脚が残らない。長く踏まれてきた作法である。 シービーは、加速しながら下った。 前の馬を一頭ずつ抜いていく。抜いても止まらない。坂を下りながら先頭へ出た。スタンドがどよめき、松山は、何をするんだ、と言ってその場で立ち上がったという。 直線では、後ろに詰めさせなかった。着差は三馬身。追い込み馬が、逃げ馬のようにゴールへ入った。 ぼつぼつ行くつもりが、シービーのほうが全速力で行ってしまった——レースのあと、吉永はそう振り返り、こう続けた。「僕はただ捕まってるだけでしたよ」[^1]
出典:井口民樹「サラブレッド・ヒーロー列伝 ミスターシービーの三冠 19年ぶりの夢(下)」『優駿』1996年11月号、90-91頁(ja.wikipedia.org/wiki/ミスターシービー 経由で確認)、閲覧日:2026年8月4日。
十九年ぶり
シンザン以来十九年ぶり、史上三頭目の三冠だった。父が日本で生まれた種牡馬である馬が三冠を取ったのは、これが初めてになる。デビュー戦から三冠達成まで、全戦で一番人気に支持されていた。それも例のないことだった。翌年からグレード制が敷かれるので、八大競走という呼び方のまま三冠を勝った最後の馬でもある。 吉永は四十二歳になったばかりだった。当時の、三冠を勝った騎手の最年長記録である。二十二年かけて八大競走をひとつ勝ち、その翌年に三つ増やしたことになる。 年末、陣営はジャパンカップも有馬記念も使わなかった。休ませるという判断である。批判は出た。ジャパンカップの前の記者会見では、英国の記者が、今年は三冠馬が出たと聞いているのに、なぜ日本で一番強い馬が出ていないのかと招待した側に問うている。この馬が海を渡ってきた馬たちと走る機会は、結局その年には作られなかった。
四つ目の冠
1984年の初戦にはアメリカジョッキークラブカップを予定していた。雪でダートに変更される可能性が出て、取りやめる。この頃から蹄の状態がまた悪くなり、次に予定していた中山記念も回避して、春は丸ごと休みになった。 十月、毎日王冠で戻ってきた。ほぼ一年ぶりの実戦である。追い切りで格下に遅れたこともあり、この馬は初めて一番人気を他馬に譲った。譲った相手は大井から中央へ移ってきたサンオーイである。レースでは後方から追い上げたが、逃げるカツラギエースをアタマ差捉えきれずに二着。ただし最後の六百メートルを三十三秒七で上がっている。当時としては破格の数字だった。 この前日から、東京競馬場に大型の映像装置が入っていた。後方を進むシービーが画面に映った瞬間、スタンドから声が上がったという。それまで、離れた最後方の馬は肉眼で追うしかなかった。 三週間後の天皇賞(秋)は、この年から距離が三千二百メートルから二千メートルに変わった最初の回である。単勝一・七倍。レースは縦長になり、シービーは最後方で、先頭からは二十馬身ほど離れていた。第三コーナーから追い出す。直線は大外を通って、前にいる全部の馬を抜いた。一分五十九秒三はコースレコードだった。二着テュデナムキングとの差は半馬身。 七年前、母シービークインが東京の二千メートルで毎日王冠を勝ったときも、時計はコースレコードだった。同じ競馬場の同じ距離で、母と子が別々の年にレコードを刻んだことになる。 三冠に、四つ目の冠が足された。
三冠馬が二頭
天皇賞の翌週、菊花賞で一つ下のシンボリルドルフが三冠を達成した。そのルドルフが次にジャパンカップへ出走を表明する。シービーも同じレースを使う。三冠馬が二頭、同じゲートに入るのは日本の競馬で初めてだった。 菊花賞から中一週で古馬に挑むルドルフは四番人気にとどまり、一番人気はシービーだった。しかし当日、シービーは後方のまま伸びず十着。ルドルフも三着に敗れる。勝ったのは十番人気のカツラギエースで、日本の馬がジャパンカップを勝った最初の一頭になった。 吉永はのちに、この日のことを自分の乗り損ないだと言っている。シービーはバテて下がってくる前の馬を見ると走る気を出す馬だったが、その日は前でバテる馬がいなかった。先行させるべきだった、と。 年末の有馬記念では、ファン投票の一位に選ばれながら、当日の人気はルドルフに次ぐ二番手だった。スタート直後から手綱をしごいても位置は上がらず、スタンド前では逃げるカツラギエースから十五馬身も後ろにいる。残り千メートルから早めに追い出したが、内へ突っ込んで前がふさがった。先に抜け出したルドルフも、粘るカツラギエースも捉えられず、三着。 年が明けて、サンケイ大阪杯はステートジャガーにハナ差の二着。四月の天皇賞(春)がルドルフとの三度目の対戦になった。松山は先行させる作戦を指示していたが、実際に起きたのは菊花賞の再現だった。二周目の坂で後方から一気にまくり、スズカコバンと並んで最終コーナーを先頭で回る。直線に入ると、そこからは伸びなかった。差してきたルドルフに大きく離された五着である。 追い込み一辺倒だという批判が、また鞍上に向いた。かばう者もいた。同僚の中島啓之は、ひとつ間違えれば暴走してしまうこの馬を御しながら先行させるなど不可能だとしたうえで、「吉永でなければシービーは三冠馬になれなかった」[^1]と言い切っている。
出典:井口民樹『三冠騎手 吉永正人——いま明かすドン尻強襲の秘密』朝日新聞社、1986年、240-247頁(ja.wikipedia.org/wiki/吉永正人 経由で確認)、閲覧日:2026年8月4日。
隣の放牧地
天皇賞のあと脚部に不安が出て休養に入った。夏に函館で調教を再開したが、直後に骨膜炎が出て復帰を断念する。1985年10月6日、東京競馬場で引退式が行われた。雨だった。スタンドには、この馬を労う横断幕がいくつも下がっていたという。翌年、顕彰馬に選ばれる。父トウショウボーイがその二年前に選ばれていたので、父と子で並んだ最初の例になった。 吉永の引退は、そのすぐあとに来る。1986年3月、松山を伴って開いた会見で、突然に発表した。表向きの理由は減量苦から来る体力の限界である。三日後の中山で最後の騎乗を終えると、通算千勝に届かない騎手としては初めての引退式が開かれた。式の終わりに、親しかった菅原泰夫の提案で同僚たちが彼を胴上げした。騎手の引退式で胴上げが行われたのは、これが最初である。以後、それは慣例になった。 もっと乗るチャンスを与えてやってくれ、と誌面から呼びかけた男は、その三年前に死んでいる。結局、この騎手に一番大きなチャンスを渡したのは、馬主でも調教師でもなかった。かつて自分が乗った逃げ馬が産んだ、一頭の黒鹿毛だった。吉永はのちに調教師になり、2006年に六十四歳で世を去っている。 シービーは六億円のシンジケートが組まれ、日本で生まれた種牡馬として初めて社台スタリオンステーションに繋がれた。初年度の産駒から重賞勝ち馬が三頭出て、新種牡馬の一位になる。種付け権に二千万円を超える値が付いたのはその直後で、当時の最高額だった。だが期待は続かず、1994年にライバルの子・トウカイテイオーと入れ替わる形で別の種馬場へ移り、1999年に種牡馬を退く。 そして千葉・三里塚にある千明牧場の分場へ移されると、放牧地は母シービークインの隣に用意された。母が生まれ、功労馬として余生を送っていた場所である。競走馬は乳離れのあと母と再会しない。牧柵ごしに互いの姿が見える暮らしは、離乳して別れて以来のことだった。母仔二代を担当した厩務員の佐藤忠雄は、この馬の澄んだ目も、心臓の強さも、内臓の丈夫さも、根性の据わったところも、何もかもシービークインそのものだったと語っている。ただ、隣にいるのが自分の産んだ馬だと、母のほうは分からなかったらしい。 2000年12月15日、父と同じ蹄葉炎で死んだ。母はその四年後、三十一歳で老衰により後を追う。 血は、記憶を渡さない。淀の下り坂で手綱が緩んだ数秒を覚えているのは、あの日そこにいた人間と、その話を何度も聞かされた次の世代のほうだ。自分が何を破ったのかは、たぶんこの馬には要らないものだった。彼はただ、母の隣で草を食んでいた。
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