名馬の記憶を、
再生する。

年表ICHINEN-ISSO — 2400m

BOKUJŌ-CHŌ — HOKKAIDO

牧場帖

一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。
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名馬録

この世代(生まれ年)

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ノースフライトのイメージビジュアル
ノースフライトNorth Flight
North Flight

ノースフライト

通算成績11戦8勝

獲得賞金45,041万円

生年月日 1990.04.12(平成2年)毛色 鹿毛

全成績

主要戦績(抜粋)・新しい順
ノースフライトの成績一覧
年月日着順レースコース人気騎手タイム上り3F映像
1 GIマイルチャンピオンS 京都 芝1600 1人気 角田晃一 1:33.0 上り34.2映像
2 GIIスワンS 阪神 芝1400 2人気 角田晃一 1:20.1 上り34.7
1 GI安田記念 東京 芝1600 5人気 角田晃一 1:33.2 上り35.7映像
1 GII読売マイラーズカップ 中京 芝1700 1人気 武豊 1:40.6 上り35.3
1 GIII京都牝馬特別 阪神 芝1600 1人気 武豊 1:36.8 上り36.0
1 GIIIサンスポ阪神牝馬特別 阪神 芝2000 1人気 武豊 2:02.8 上り36.5
2 GIエリザベス女王杯 京都 芝2400 5人気 角田晃一 2:25.1 上り35.7映像
1 GIII府中牝馬S 東京 芝1600 4人気 角田晃一 1:34.7 上り35.3
5 秋分特別 阪神 芝2000 1人気 武豊 2:03.0 上り38.0
1 足立山特別 小倉 芝1700 1人気 武豊 1:41.3 上り35.9
1 4歳未出走 新潟 芝1600 1人気 西園正都 1:36.2 上り36.7

血統

金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ
ノースフライトの血統表(左から親・祖父母・曽祖父母)
トニービンTony BinカンパラKampalaKalamoun
State Pension
Severn BridgeHornbeam
Priddy Fair
シヤダイフライトヒッティングアウェーHitting AwayAmbiorix
Striking
フォーワードフライトForward FlightPorterhouse
Bashful Girl
STORY

旅程 — この馬の物語

1990年生まれの鹿毛の牝馬。父トニービン、母シヤダイフライト。主な勝ち鞍は安田記念・マイルチャンピオンS・府中牝馬S。

四百十万円

1990年1月、北海道。斎藤敏雄は社台グループが開くセリ市の会場にいた。 浦河の大北牧場は1935年創業の老舗である。1965年の桜花賞を勝ったハツユキも、ここで生まれた。ただしそれは先代の仕事だった。二代目の場主が交通事故で急死し、十八歳の敏雄が三代目を継いでからの二十年、牧場はずっと低迷していた。潮目が変わったのは前年の春である。生産馬ライトカラーが優駿牝馬(オークス)を勝ち、彼の代で初めてのクラシック制覇となった。奮起した斎藤は、新しい繁殖牝馬を探しにこのセリへ来ていた。 目当ての一頭を落としたあと、予算がまだ残った。受胎した牝馬をもう一頭買えるかもしれない。そう思って歩いていて、ある馬の前で足が止まる。厳寒のなか、緊張のために汗をかき、震えている牝馬だった。 シヤダイフライト。十八歳。左目は弱視。腹には、社台が導入したばかりの新種牡馬トニービンの仔がいた。 その姿を見て、斎藤はひと声で落とせると踏んだ。実際そのとおりになる。開始価格に十万円を上乗せしただけの四百十万円。その日そのセリに上場された馬のなかで、いちばん安い値だった。 会場の注目は、まるで集まらなかった。ただ一人を除いて。社台の総帥・吉田善哉である。彼はこの馬について、従業員に何度も確かめていたという。「本当にあの馬を売っていいのか」[^1]。セリの最中も、高いところから身を乗り出して様子を見ていた。 その問いに答えが出るまでには、四年かかる。

出典:『週刊100名馬 Vol.32 ノースフライト』pp.28-29(日本語版ウィキペディア「ノースフライト」に引用)、https://ja.wikipedia.org/wiki/ノースフライト 、閲覧日:2026年8月3日。

売れ残った仔

同じ年の4月12日の朝。斎藤が馬房を覗くと、鹿毛の牝馬がもう自分の脚で立っていた。シヤダイフライトは人の手を借りずに産み終えていた。生まれた仔は種牡馬の良さばかりが出た体つきで、牡かと思ったほどだったと斎藤は振り返っている。 それでも買い手は現れなかった。トニービンの初年度産駒にあたる世代である。馬産地には、この種牡馬の仔は華奢で頼りないという評判が先に立っていた。並以上の体ができていても、値がつかない。やむなく、牧場が自分で持つことになった。 名前は、大北牧場の「北(north)」に母の名の一部を継いで、ノースフライトとした。母の名の頭には売り手の牧場の名があり、娘の名の頭には買い手の牧場の名が入った。売れ残ったことが、この馬に牧場の名を与えたことになる。 血そのものは細くない。同じ母から出た半姉にノーザンミンクス(父ノーザンテースト)がいて、その仔マリーゴッドはのちに函館3歳ステークス(現在の函館2歳ステークス)を勝っている。 ただ、育成のペースは上がらなかった。旧表記で四歳、現在の数え方なら三歳になった1993年、まず奈良県の育成場へ移り、二月に栗東の加藤敬二厩舎へ入った。同じ世代のクラシック戦線では、ベガやウイニングチケットといったトニービン産駒が暴れていた。華奢で頼りないという評判は、その春のうちに崩れ去る。 それでも斎藤の見立ては控えめだった。「競走馬としてはだめでも繁殖としては価値がある」[^1]。その程度にしか思っていなかったという。 厩舎で世話をしたのは石倉幹子だった。その年の一月に厩務員になったばかりで、デビュー前から一頭を任されるのはこの馬が初めてだった。石倉はこの馬を「フーちゃん」と呼んだ。その呼び名が厩舎の外へ漏れ、やがてファンの間に定着していく。

出典:『優駿』1993年12月号 p.154(日本語版ウィキペディア「ノースフライト」に引用)、https://ja.wikipedia.org/wiki/ノースフライト 、閲覧日:2026年8月3日。

九馬身、そして八馬身

デビューは1993年5月1日、新潟の四歳未出走戦。鞍上は西園正都。一番人気に応え、二着に九馬身をつけて勝った。 三か月近く間を空けて、七月の小倉・足立山特別。今度は武豊が乗り、八馬身差。二戦続けて、後続が視界から消える勝ち方だった。この年、牝馬二冠を制していたのはベガである。ベガの三冠を阻む馬がいるとすればこの馬ではないか、という声が上がった。ベガの主戦でもある武自身が、キャリア一戦の休養明けでこれだけ走るのだから能力が違う、秋にはベガのライバルになるかもしれない、と語っている。 九月、阪神の秋分特別。ここで歯車が狂った。調整の途中で発熱と蕁麻疹が出て、当日は発情もあった。単勝一・二倍の支持を受けて五着。上がり三ハロン——最後の六百メートルにかかる時間——は三十八秒台まで落ちている。生涯でいちばん悪い着順と、いちばん鈍い脚が、同じ日に出た。 二千メートルだった。距離のせいなのか、体調のせいなのか。その時点では切り分けようがなかった。

格上挑戦と、内から来た一頭

エリザベス女王杯に出るには賞金が足りない。陣営が選んだのは、二クラス上への格上挑戦だった。十月、東京の府中牝馬ステークス。鞍上は角田晃一に替わった。四番人気。好位を進み、直線で余裕をもって抜け出して、キャリア四戦目で重賞を勝った。 これで女王杯の有力馬になったが、不安は残った。勝った三戦はいずれも千六百メートル前後。唯一の敗戦が二千メートル。女王杯の二千四百は、明らかにその外側にある。 十一月十四日、京都。五番人気。中団から運び、直線でいったん先頭に立った。勝てる、と鞍上は思ったという。その直後、内から一頭が伸びてきた。九番人気のホクトベガである。かわされて一馬身半差の二着。角田は、抜け出したときは勝てると思った、ホクトベガはノーマークだった、と振り返っている。 距離の答えは、年末に出た。十二月の阪神牝馬特別。二千メートルのこの重賞を、武豊を背に勝ってみせる。重賞二勝目だった。二千が持たない馬ではなかったのだ。ただ、この馬がいちばん強く見える場所は、もっと短いところにある。それを関係者が言葉にするのは、年が明けてからだった。

マイラーという答え

1994年は一月の京都牝馬特別から始まった。阪神の千六百。二着に六馬身差をつけた。 三月、中京のマイラーズカップで初めて牡馬と当たる。この年の秋にジャパンカップを勝つマーベラスクラウンをクビ差で退け、時計はレコードだった。武は、着差以上に強い内容だったと評している。 このころ、武も加藤も同じ言葉を口にし始めた。この馬はマイラーだ、と。千六百メートル前後を最も得意とする馬、という意味である。進む道はそこで決まった。 陣営は春の目標を安田記念と明言した。ところが武は、加藤にひとつ願い出る。もうひとつの前哨戦である京王杯スプリングカップが終わるまで、安田記念に乗るかどうかの判断を保留させてほしい、と。 京王杯で武が手綱を取ったのは、フランスから来たスキーパラダイスだった。この馬が、ほかの外国馬三頭を二着から四着に従えて勝つ。答えは出た。武は安田記念でスキーパラダイスに乗る。ノースフライトの鞍上は、エリザベス女王杯で背にいた角田晃一に決まった。

小雨の府中 ― 前が壊れていく

五月十五日、東京競馬場。小雨が降っていた。 安田記念は前年から国際競走になっている。この日のゲートには、1000ギニーとジャック・ル・マロワ賞を勝ったサイエダティ、フォレ賞のドルフィンストリート、ミドルパークステークスのザイーテン、そして京王杯を勝ったばかりのスキーパラダイスが並んだ。国内からは前年のスプリンターズステークス優勝馬サクラバクシンオーが来ている。ジャパンカップにも見劣りしない顔ぶれだと、当時の記録は書いている。 一番人気は武豊のスキーパラダイス。ノースフライトは五番人気だった。 ゲートが開く。彼女は、出遅れた。 前では先行勢が競り合っていた。譲る馬がいない。千メートルの通過が五十六秒九。当時の日本レコードに迫る速さで、マイル戦の前半が過ぎていった。これだけ速く行けば、前にいる馬は直線で必ず脚が上がる。出遅れて後方にいることが、このとき初めて有利に転じた。 隊列は変わらない。最終コーナーに入って、ノースフライトはようやく先団の背中へ取り付いた。 直線。前が壊れていく。残り二百メートルの地点で、彼女は先頭に立った。 そこから先は追い比べにならなかった。二着に入ったのはトーワダーリンで、二馬身半離れている。三着から五着までの三頭は、同じ時計でゴールした。世界のマイル戦線から集まった馬たちが、後ろでひとつの塊になっていた。そこから抜け出したのは、四百十万円の母から生まれ、買い手のつかなかった一頭だけだった。 走破時計は一分三十三秒二。当時、この競走の歴史で二番目に速い数字だった。加藤敬二にとっては、初めてのGIである。 そして、二着に敗れたトーワダーリンには、ひとつ因縁がある。父はニホンピロウイナー。同じ年に安田記念とマイルチャンピオンシップの両方を勝った、ただ一頭の馬だった。

一分三十三秒〇

春はここまでだった。ぎりぎりの仕上げで臨んだ一戦である。放牧に出し、夏は北海道のノーザンファーム空港牧場で過ごさせた。 秋は当初、マイルチャンピオンシップへ直行する予定だった。ところが状態の戻りが早く、前哨戦のスワンステークスから始動することになる。ここに、安田記念で四着に敗れていたサクラバクシンオーが出てきた。短距離の王者と、マイルの女王。互いの得意距離の中間にあたる千四百で、正面からぶつかることになった。 生涯でいちばん短い距離である。道中の追走で苦労し、最終コーナーでも馬群から出られなかった。直線で追い込んだが、一馬身四分の一届かない。勝ったバクシンオーの時計は一分十九秒九。千四百メートルで初めて一分二十秒を切った、当時の日本レコードだった。角田は、この距離であのスピードについていったらこちらが潰れる、と完敗を認めている。 十一月二十日、京都。マイルチャンピオンシップ。この一戦を最後に引退することが、レース前に発表されていた。 千六百なら分がある。単勝一・七倍の一番人気。バクシンオーが三・三倍で続き、三番人気は十一倍を超えていた。二頭の争いだと、誰もが見ていた。 バクシンオーが三番手につけ、ノースフライトはその直後を進んだ。三コーナーからペースが上がる。直線の入り口で先頭に立ったのはバクシンオーだった。ノースフライトが捉えたのは、直線の半ばである。そこからは離す一方で、一馬身半差がついた。三着に入ったフジノマッケンオーの鞍上は、武豊だった。 一分三十三秒〇。従来のコースレコードをコンマ三秒縮めた。 同じ年に安田記念とマイルチャンピオンシップを勝った馬は、1985年のニホンピロウイナー以来、九年ぶり二頭目である。半年前の府中で二馬身半後ろにいたトーワダーリンは、そのニホンピロウイナーの娘だった。血が守っていた記録に、四百十万円の牝馬が並んだことになる。 バクシンオーを管理した境勝太郎は、後年こう評した。スワンステークスで勝ってマイルチャンピオンシップで負けたのは距離適性の差ではない、ノースフライトの状態が完全だったかどうかで結果が決まったのだ、と。あの馬が万全で出てきたら千二百メートルでもバクシンオーが勝てたかどうか——そこまで言っている。

北へ帰る

十一月三十日、競走登録が抹消された。ノースフライトは繁殖入りのため、浦河の大北牧場へ帰っていった。デビュー前から預かった最初の一頭を送り出した石倉幹子は、のちに1998年の優駿牝馬を勝つエリモエクセルも担当している。 翌年一月、JRA賞最優秀5歳以上牝馬に選ばれた。JRAのフリーハンデ——仮の斤量を置いて能力を序列化する評価——では、短距離部門の牝馬として歴代最高の六十キロを与えられている。ところが同じ年の最優秀短距離馬は、彼女が本番で退けたサクラバクシンオーだった。評論家の大川慶次郎はこれに納得しなかった。前年はスプリンターズステークスでバクシンオーに敗れたヤマニンゼファーが最優秀短距離馬に選ばれている、その理屈でいくならバクシンオーを破ってGIを二つ勝った馬が選ばれないのはおかしい、と後年に書いた。千六百を勝った馬を短距離馬に入れるのか入れないのか、JRAは記者にきちんと説明すべきだ、とも伝えていたという。年度代表馬は三冠のナリタブライアンで、これは順当だった。ただし満票ではない。投票用紙の一枚に、ノースフライトの名が書かれていた。 「印象が薄い」という評は、当時からあった。あるライターはその理由をこう説明している。思い入れというものは時間をかけて熟成するのに、この馬はその暇をくれなかった。表舞台に出てきて、強いぞと思い、少し目を離した隙に、頂上まで登ってしまった、と。 おそらくそのとおりなのだ。デビューは旧表記で四歳の五月、クラシックには縁がなかった。走ったのは十一回。そのうち八回勝ち、千六百メートルでは五回走って五回とも勝った。負けたのは三度だけである。熟成する時間がなかったのではない。速すぎたのだ。 引退の理由を問われた斎藤敏雄は、こう答えている。「惜しいとはみなさんに言っていただきますけど、彼女にはこれからも仕事がありますから、これがベストだろうと思っています」[^1] その仕事は、競走成績としてはささやかに終わった。三番仔ミスキャストが2001年のプリンシパルステークスを勝ったのが最も高いところで、GIに届いた産駒はいない。それでも血は、思ったより遠くまで飛んだ。初仔のキコウシは2006年から六年にわたって阪神競馬場の誘導馬を務めた。ミスキャストは種牡馬になり、その仔ビートブラックが2012年の天皇賞・春を勝った。二番仔フェルメールブルーの孫にあたるダテノショウグンは、2023年のハイセイコー記念と翌年の黒潮盃を勝っている。 やがて繁殖を退き、そのあとは功労馬として浦河で過ごした。2018年1月22日、心不全で死んだ。二十八歳だった。 あの寒いセリ会場で、吉田善哉は何度も確かめたという。本当にあの馬を売っていいのか、と。売る側にも買う側にも、そのときは答えようがなかった。震えていた十八歳の弱視の牝馬の腹に、やがて「マイルの女王」と呼ばれる馬がいるとは、四百十万円を出した斎藤敏雄自身が思っていなかったのだから。 答えを出したのは、馬のほうだった。北の名を一字だけもらって生まれ、その北へ帰り、生まれた場所と同じ土の上で最期を迎えた。

出典:『優駿』1995年1月号 pp.142-143(日本語版ウィキペディア「ノースフライト」に引用)、https://ja.wikipedia.org/wiki/ノースフライト 、閲覧日:2026年8月3日。

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