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一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。名馬録
スライダーを動かすと、その世代に生まれた馬を獲得賞金の多い順で表示します。
オグリキャップ
通算成績32戦22勝
獲得賞金9億1,251万円
生年 1985(昭和60年)毛色 芦毛性 牡
全成績
主要戦績(抜粋)・新しい順| 年月日 | 着順 | レース | コース | 人気 | 騎手 | タイム | 映像 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | GI有馬記念 | 中山 芝2500 | 4人気 | 武豊 | 2:34.2 | 映像 | |
| 11 | GIジャパンカップ | 東京 芝2400 | 増沢末夫 | 映像 | |||
| 6 | GI天皇賞(秋) | 東京 芝2000 | 増沢末夫 | 映像 | |||
| 2 | GI宝塚記念 | 阪神 芝2200 | 岡潤一郎 | 映像 | |||
| 1 | GI安田記念 | 東京 芝1600 | 1人気 | 武豊 | 1:32.4 | 映像 | |
| 5 | GI有馬記念 | 中山 芝2500 | 南井克巳 | 映像 | |||
| 2 | GIジャパンカップ | 東京 芝2400 | 2人気 | 南井克巳 | 2:22.2 | 映像 | |
| 1 | GIマイルチャンピオンシップ | 京都 芝1600 | 1人気 | 南井克巳 | 1:34.6 | 映像 | |
| 2 | GI天皇賞(秋) | 東京 芝2000 | 1人気 | 南井克巳 | 映像 | ||
| 1 | GII毎日王冠 | 東京 芝1800 | 南井克巳 | 映像 | |||
| 1 | GIIIオールカマー | 中山 芝2200 | 南井克巳 | 映像 | |||
| 1 | GI有馬記念 | 中山 芝2500 | 1人気 | 岡部幸雄 | 2:33.9 | 映像 | |
| 3 | GIジャパンカップ | 東京 芝2400 | 岡部幸雄 | 映像 | |||
| 2 | GI天皇賞(秋) | 東京 芝2000 | 河内洋 | 映像 | |||
| 1 | GII毎日王冠 | 東京 芝1800 | 河内洋 | 映像 | |||
| 1 | GII高松宮杯 | 中京 芝2000 | 河内洋 | 映像 | |||
| 1 | GIIニュージーランドトロフィー4歳ステークス | 東京 芝1600 | 河内洋 | 映像 | |||
| 1 | GIII京都4歳特別 | 京都 芝2000 | 南井克巳 | 映像 | |||
| 1 | GIII毎日杯 | 阪神 芝2000 | 河内洋 | 映像 | |||
| 1 | GIIIペガサスステークス | 阪神 ダート1600 | 1人気 | 河内洋 | 1:35.6 | 映像 | |
| 1 | 重賞ゴールドジュニア | 笠松 ダート1600 | 1人気 | 安藤勝己 | — | ||
| 1 | 重賞ジュニアグランプリ | 笠松 ダート1600 | 1人気 | 安藤勝己 | — | ||
| 1 | 師走特別 | 笠松 ダート1600 | 安藤勝己 | 1:44.4 | — | ||
| 1 | 重賞中日スポーツ杯 | 名古屋 ダート1400 | 1人気 | 安藤勝己 | 1:29.8 | — | |
| 1 | 重賞中京盃 | 中京 芝1200 | 1人気 | 安藤勝己 | 1:10.8 | — | |
| 1 | 重賞ジュニアクラウン | 笠松 ダート1400 | 1人気 | 安藤勝己 | 1:29.4 | — | |
| 1 | 秋風ジュニア | 笠松 ダート1400 | 1人気 | 安藤勝己 | 1:30.3 | — | |
| 1 | 3歳 | 笠松 ダート800 | 1人気 | 加藤一成 | 0:49.7 | — | |
| 2 | 3歳 | 笠松 ダート800 | 加藤一成 | — | |||
| 1 | 3歳 | 笠松 ダート800 | 青木達彦 | — | |||
| 1 | 3歳 | 笠松 ダート800 | 加藤一成 | — | |||
| 2 | 3歳新馬 | 笠松 ダート800 | 2人気 | 青木達彦 | — |
血統
金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ| 父ダンシングキャップDancing Cap | ネイティヴダンサーNative Dancer | ポリネシアンPolynesian |
| ガイシャGeisha | ||
| メリーマッドキャップMerry Madcap | グレイソヴリンGrey Sovereign | |
| クロフトレディCroft Lady | ||
| 母ホワイトナルビーWhite Naruby | シルバーシャークSilver Shark | ビュイッソンアルダンBuisson Ardent |
| パルサカPalsaka | ||
| ネヴァーナルビーNever Naruby | ネヴァービートNever Beat | |
| クインナルビーQuin Naruby |
引退後・牧場での映像
ゴール板の先の時間旅程 — この馬の物語
笠松から中央へ殴り込んだ怪物。第二次競馬ブームの主役となり、ラストランの有馬記念は今も語り草。
「ハツラツ」と名づけられた仔
1985年3月27日の深夜、北海道三石町の稲葉牧場で芦毛の牡馬が生まれた。右の前脚が大きく外を向いていて、自分では立ち上がれない。人が抱きかかえて初乳を飲ませた。牧場長の稲葉不奈男は、この脚を抱えた仔が無事に育つようにと願い、血統名に「ハツラツ」と付ける。外向は、稲葉が蹄を削りながら少しずつ矯正していった。 母のホワイトナルビーは笠松で4勝した牝馬である。乳の出がよくなく、授乳を嫌がることもあったから、仔は痩せて見栄えがしなかった。ただ、よく食べた。放牧地の雑草までかまわず口に入れ、二歳の秋には他馬に見劣りしない馬体になっている。前に馬がいれば抜こうとする。負けん気だけは、最初から強かった。 父を選んだのは馬主の小栗孝一だった。当初はトウショウボーイを予定したものの種付けの枠が空いておらず、笠松で好成績を出していたダンシングキャップに切り替える。調教師の鷲見昌勇は、その産駒に気性の荒い馬が多いことを理由に反対した。小栗が押し切った。馬名は自分の冠名「オグリ」に、父の名から「キャップ」を借りたものである。東海の大レースを勝つための馬として、名前まで先に決まっていた。 血の格は、遡ればあった。牝系をたどればクインナルビーに行き着く。1953年の天皇賞(秋)をレコードで勝った牝馬である。同じ一族からは、のちにキョウエイマーチもマルシュロレーヌもナミュールも出た。ただし1985年の春に、その先を知る者はいない。放牧地にいたのは、右前脚の向きの悪い、痩せた芦毛の仔だった。
出遅れという名のハンデ
1987年1月28日、笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入る。登録された馬名は「オグリキヤツプ」。当時の地方競馬では、促音も拗音も馬名に使えなかった。 5月19日、ダート800mの新馬戦。能力試験のタイムを買われて2番人気に推されたが、ゲートで出遅れ、三コーナーでは外へ大きく振られた。直線で伸びてマーチトウショウにクビ差まで詰めたところがゴールである。四戦目も、同じ相手に、同じ800mで、同じように出遅れて2着だった。 負けた二戦はどちらも短すぎた。エンジンのかかりが遅い馬に、800mは足りない。厩舎の周りでは、こいつは特急で他は鈍行だから出遅れがちょうどいいハンデなのだ、という言い方がされていたという。 四戦目と五戦目のあいだに、厩務員が代わっている。引き継いだ川瀬友光が蹄を見ると、蹄叉腐乱を起こしていた。痛むので脚を上げることすら嫌がる。川瀬は蹄を掃除し、薬を付けて内側を焼き、三日ほどで治した。走るための条件は、そこでようやく揃った。 六戦目の秋風ジュニアで、笠松のリーディングジョッキーだった安藤勝己が初めて跨る。それまで乗っていた青木達彦は肩を脱臼して不在、もう一人の高橋一成は研修で不在。偶然が二つ重なって回ってきた騎乗だった。安藤は調教で跨っただけで、来年は間違いなく東海ダービーを取れる、と厩務員に言ったという。 五戦目でマーチトウショウを降して以降、笠松を出るまでに八連勝した。うち七戦は安藤が乗っている。重賞は五つ。ハナ差でしのいだジュニアクラウンを除けば、どのレースも二着に二馬身以上をつけた。師走特別では、三歳で古馬を相手に六馬身ちぎっている。 決定的だったのは十月の中京盃だろう。当時の中京競馬場は地方と中央が共同で使っており、コースは芝だった。ダートしか走ったことのない馬が、初めての芝1200mを1分10秒8で駆け抜ける。この日から、笠松には購入の申し込みが殺到した。
幻のダービー
1988年1月、小栗はオグリキャップを2000万円で佐橋五十雄に譲った。佐橋は中央競馬への移籍を決めていた。 小栗は所有馬を手放さない信条の人で、殺到する申し込みはすべて断ってきた。佐橋だけが引かない。このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいのか、馬のためを思うなら中央で走らせるべきだ――そう繰り返され、小栗は「中央の芝が向かなければ鷲見厩舎に戻す」という条件を付けて頷いた。 笠松には、それで断たれたものがあった。鷲見が悲願にしていた東海ダービーである。笠松での最後の一戦となったゴールドジュニアのあと、小栗が記念撮影をと言い出したのを、鷲見は断った。 栗東の瀬戸口勉厩舎へ移り、鞍上は佐橋の希望で河内洋に決まる。3月6日、阪神のペガサスステークス。地方での快進撃は伝わっていたが、単勝は2番人気どまりだった。後方に控え、三コーナーから外を回って上がり、四コーナーを過ぎて突き放す。瀬戸口は期待半分不安半分、河内は強いのは確かだがどこまで強いかは未知数――出走前の見立ては、そんなところだったという。結果はそれを上回った。 続く毎日杯は、追い込み馬に不利とされる重馬場。三コーナーで最後方から外へ持ち出し、ゴール直前で先頭に立った。二連勝で、本賞金は皐月賞に出るのに充分な額に届く。 それでも出られなかった。クラシックの登録がなかったからである。当時は前年十月の第一次締切までに、地方所属馬なら中央への移籍手続きを終えたうえで申し込まなければ、内国産馬でもクラシックには出走できない。小栗に中央で走らせる考えがなかった以上、登録があるはずもなかった。中央が追加登録の制度を作るのは1992年、地方に在籍したままクラシックに出られるようになるのは1995年である。1988年の春には、扉そのものが無かった。 皐月賞の代わりに走ったのが京都4歳特別だった。一頭だけ58キロを背負い、三コーナーから後方のまま一気に押し上げて勝つ。ダービーの代わりに走ったのは、出られない馬が集まることから「断念ダービー」と呼ばれていたニュージーランドトロフィー4歳ステークス。東京の芝1600mを1分34秒0、レースレコードで駆けた。前月に同じ舞台で行われた古馬GIの安田記念の勝ち時計より、0秒2速い。しかも河内は、最後まで本気で追ってはいなかった。 夏の高松宮杯で、初めて中央の古馬と当たる。四番手から三コーナーで動き、直線で逃げるランドヒリュウをかわして、中京芝2000mのコースレコード。地方から移ってきた馬の重賞連勝記録が、ハイセイコーの四から五に変わった。秋初戦の毎日王冠も後方から三コーナーでまくって勝った。JRAの重賞六連勝は、メジロラモーヌに並ぶ当時のタイ記録である。 その年の皐月賞を勝ったのは、毎日杯でオグリキャップの四着に敗れていたヤエノムテキだった。マルゼンスキー以来の「幻のダービー馬」という呼び名が、この馬に付く。
芦毛が二頭
10月30日、東京。天皇賞(秋)でGIに初めて出た。相手はタマモクロス。前年秋から七連勝中の古馬で、これも芦毛である。 1番人気に推されたオグリキャップは、出走馬中もっとも速い上がり三ハロン(最後の六百メートル)を使った。それでも足りない。二番手から早めに抜け出したタマモクロスを直線で捉えきれず、二着。中央に来て、初めての黒星だった。 一か月後のジャパンカップでも、同じ背中を追うことになる。天皇賞の乗り方に馬主が不満を漏らしたのを受け、河内は瀬戸口と相談して先行策を採った。ところが向正面で折り合いを欠いて下がり、三コーナーでは馬群に閉じ込められる。四コーナーから進路を探して外へ出したときには、ペイザバトラーとタマモクロスが前にいた。三着。 有馬記念の鞍上に、佐橋は岡部幸雄を望んだ。岡部は、西の馬はよく分からないから、と婉曲に断っている。瀬戸口が「一回だけ」という条件を付けて頼み直し、それで話がついた。レースの十日前には岡部の提案で、まだ走ったことのない中山で調教が行われている。 ファン投票はタマモクロスが一位、オグリキャップが二位。12月25日、中山。終始五、六番手を進み、四コーナーから動いて直線で先頭に立つと、そのまま押し切った。GI初制覇であり、芦毛の馬が有馬記念を勝ったのは初めてだった。瀬戸口にとっても、1973年に調教師免許を得てから最初のGIである。 この秋、ひとつの助言があった。天皇賞のあと、タマモクロス側の調教助手・井高淳一が、麻雀仲間だったオグリキャップの調教助手・辻本光雄に、飼い葉桶を覗いて忠告したのである。あんなものを食わせていては勝てない、と。飼い葉には、レースを使っている馬には要らない、体を太らせるための成分が入っていた。辻本はすぐ配合を変えた。有馬記念のあとで井高は、結果的に敵に塩を送ったことになる、と苦笑したという。 年が明け、1988年度の最優秀四歳牡馬に選ばれた。クラシックを一つも勝っていない馬がこの賞を受けたのは、それが初めてだった。
三か月で、六つの重賞
1989年の春、オグリキャップは一度も走っていない。二月に右前脚の球節を捻挫し、四月には同じ脚に繋靭帯炎が出た。前半をすべて休養に充て、いわきにある競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設に入る。厩務員の池江敏郎が付き添った。温泉に浸け、プールで泳がせ、超音波を当てて脚を治す。七月に栗東へ戻ってからも、調教の主体はプールだった。 この年の二月、馬主が佐橋五十雄から近藤俊典に代わっている。 復帰は九月のオールカマー。鞍上は南井克巳に替わる。前年の京都4歳特別で一度だけ乗った男である。中山芝2200mのレコードで勝った。パドックに姿を見せただけで拍手が起きた。あれがブームの始まりだったと、後年そう振り返る書き手がいる。 そこから三か月あまりで、重賞を六つ走ることになる。 毎日王冠。後方から四コーナーで外を回り、残り百メートルでイナリワンと並んだ。写真判定でハナ差。史上初の毎日王冠連覇である。 天皇賞(秋)。六番手から追ったが、直線で前が壁になって加速が遅れ、先に抜け出したスーパークリークに届かず二着。南井は後年、自分がこの馬に乗ったなかで最も印象に残るのは「勝てたのに負けた」この一戦だと語っている。 マイルチャンピオンシップ。三コーナーで外へ持ち出したものの進出が鈍く、四コーナーでは進路がない。前を行くバンブーメモリーとの差は、届くはずがないと見られていた。直線で進路が開いた瞬間から加速して、ゴール板でほぼ並ぶ。写真判定、ハナ差。前走を自分のミスで落としたと考えていた南井は、勝利騎手インタビューで泣いた。 その翌週、連闘でジャパンカップに出走する。逃げたイブンベイの1800m通過が、当時の芝1800mの日本レコードを上回るという流れだった。四番手を追走し、2分22秒2で走破する。芝2400mの世界レコードと同じ時計である。それでも、ホーリックスの二着だった。 暮れの有馬記念は五着。パドックで馬主に状態を見てくれと頼まれた鷲見は、疲れきっている、休ませないと可哀相だ、と答えている。レース後に馬房を訪ねた鷲見は、爪がすり減っていた、あのままではパンクしていた、とも言った。 このローテーションは激しく批判された。瀬戸口は、あの馬に常識は通用しないのだと言い、それでも連闘とオールカマー起用については無理が少しあったと認めている。同じ年、この馬にはJRA賞の特別賞が贈られた。
落ちた偶像
1990年。アメリカのアーリントンミリオンステークスを目標に置いたローテーションが組まれ、五月の安田記念で武豊が初めて背に乗った。 このコンビには前史がある。前年の有馬記念の直前、武はテレビ番組で、オグリキャップは何を考えているか分からないところがあって嫌いだ、という趣旨の発言をしていた。安田記念のパドックには罵声が飛び、武を降ろせという横断幕が掲げられる。レースは、それを黙らせた。二、三番手から残り四百メートルで先頭に立ち、1分32秒4のコースレコード。この一戦で、通算獲得賞金が日本の歴代一位になった。 そこからは下り坂である。宝塚記念は、武がスーパークリークを選んだため岡潤一郎が乗り、オサイチジョージの二着。直後に両前脚の骨膜炎、続いて右後肢の飛節軟腫が出て、アメリカ遠征の登録は取り消された。秋、増沢末夫を背に走った天皇賞(秋)は六着、ジャパンカップは十一着に沈む。 「輝きを失ったヒーロー」「落ちた偶像」と書かれた。もう負けるところは見たくない、引退させてやれという声が上がる。馬主の近藤俊典のもとには、出走を取りやめなければ自宅と競馬場に爆弾を仕掛けるという脅迫状まで届いた。 ただ一人、勝つと言っていた人がいる。中央移籍以来この馬を診てきた獣医師の吉村秀之である。移籍当初のオグリキャップは、安静時の心拍数が二十四から二十七という、いわゆるスポーツ心臓を持っていた。それが大敗の続いた時期には失われていた。有馬記念の前、吉村はそれが戻っているのを確かめ、家族に、今度は勝つ、と告げている。 引退レースは有馬記念と決まった。ファン投票は一位だった。当日の単勝は、四番人気だった。
十二月二十三日、中山
ゲートが開く前に、ひと騒ぎあった。秋の天皇賞を勝ったヤエノムテキが大観衆に驚いて岡部幸雄を振り落とし、空馬のままコースを走ってしまう。それが収まってから、十六頭が枠に入った。 逃げると見られていたミスターシクレノンが出遅れた。押し出される形で、オサイチジョージが先頭に立つ。後続は競りかけなかった。暮れの中山の二千五百メートルは、グランプリとは思えないほど遅い流れになる。同じ日に同じ距離で行われた下級条件のレースのほうが、速く走っていたほどだった。 オグリキャップは中団、五、六番手にいた。この馬にとって、遅い流れは楽ではない。真面目すぎるくらいの馬だと言われ続けてきた。行きたがるのを、抑えて、抑えて、待たせる。最初の千メートルで武豊がしていたのは、ほとんどそれだけだった。 三コーナー。まだ動かない。四コーナーの入口にきて、外めから先頭集団に並びかけた。 直線に向くところで、武はひとつ細工をした。この馬にはコーナーで内にもたれる癖がある。それを直すには右から鞭を入れるしかない。ところが、右手前で回ってきた脚を左手前に替えさせるには、左から合図を送らなければならない。二つは両立しない。武は直線の入口で馬の顔をわざと外へ向け、内へ寄ろうとする力をそれで殺したうえで、左から鞭を入れた。手前が、替わった。 オサイチジョージを交わして先頭に立つ。内からホワイトストーン、外からメジロライアン。若い二頭が、両側から並びかかってくる。 差は開かなかった。開かなかったが、詰まりもしない。四分の三馬身だけ前で、芦毛の馬がゴール板を通過した。 その日、中山競馬場には十七万人を超える人が入っている。この競馬場の最高入場者数の記録になった。ウイニングランに出た馬の名を、スタンドが呼んだ。騎手ではなく馬の名でコールが起きたのは、競馬史上これが初めてだったという。 武豊はのちに、この馬には人を惹きつける魅力があったと振り返り、こう続けている。「この勝利で僕も周りから認めてもらえるところがあった」[^1]
出典:テレ東スポーツ「オグリキャップ 鳴り止まないオグリコール 伝説の芦毛の怪物は最後の力を振り絞り劇的勝利!【思い出に残る有馬記念】」2025年12月28日配信、https://www.tv-tokyo.co.jp/sports/articles/2025/12/041044.html 、閲覧日:2026年8月3日。
笠松へ帰る
翌1991年の一月、引退式が三度行われた。十三日に京都、十五日に笠松、二十七日に東京。 笠松には、競馬場の中だけで二万五千人が入った。笠松町の人口が二万三千人だった年である。入場制限がかかり、場外から見ていた人を合わせると四万人になったという。名鉄はオグリキャップの顔を掲げたプレート付きの特急を二本走らせ、笠松駅に臨時停車させた。 その日、馬の背にいたのは安藤勝己だった。 三年前、この馬が中央へ移った時点で、笠松所属の安藤には手綱を取る機会が制度として消えていた。1990年のジャパンカップに川崎の騎手が出走馬で参戦すると聞いたとき、安藤は二代目の馬主だった佐橋五十雄に騎乗を願い出ている。実現しなかった。 引退式は一周する予定だった。安藤は二周した。乗り味がよすぎたから、というのが理由のすべてである。久しぶりに間近で見たその馬は、笠松にいた頃より体高が十センチほど高くなっていた。 有馬記念のファン投票で一位に選んだのも、単勝を四番人気に置いたのも、同じ人たちである。財布は正直だった。心は、そうではなかった。勝てるとは思っていない、それでももう一度ゲートに入るところが見たい――十四万を超える票は、勝利にではなく、この馬そのものに投じられていた。だから勝った瞬間、スタンドが呼んだのは騎手の名ではなかったのだろう。 安藤勝己はその後も笠松で乗り続けた。中央の騎手免許試験を受けたのは2001年で、落ちている。日本中央競馬会には抗議が殺到した。翌年、要項が変わる。受験年の前年以前の五年間に中央で年間二十勝以上を二度挙げていれば、基礎的な試験は免除する――当時それに当てはまる地方の騎手は、安藤ひとりだった。2003年2月に合格し、翌年、キングカメハメハで東京優駿を勝つ。オグリキャップが出走を許されなかったレースを、かつてその背にいた男が獲った。安藤は後年、自分の未来を切り開いてくれた馬だと語っている。 クラシックの冠は、身内が取り返した。小栗孝一はオグリキャップの活躍のあとで中央の馬主資格を取り、1994年、半妹のオグリローマンが桜花賞を勝つ。兄が近づくことすらできなかったクラシックを、妹が持ち帰った。 2010年7月3日、新冠の優駿スタリオンステーション。一般公開用のパドックから馬房へ戻そうとスタッフが向かうと、オグリキャップは倒れて起き上がれずにいた。ぬかるんだ地面に脚を取られて転倒し、右後肢の脛骨を折っていた。複雑骨折で手の施しようがなく、安楽死の処置が執られる。二十五歳だった。笠松競馬場には献花台が置かれ、新冠で開かれたお別れ会には、全国から集められた一万四千人近い記帳が供えられた。 思い出されるのは、たいてい中山の直線だろう。けれど笠松の一月にも、短い場面がある。一周のはずが、二周になった。乗り味がよかったから、それだけの理由で。三十二戦して二十二勝、中央でGIを四つ勝ち、賞金の記録を書き換え、暮れの中山に十七万人を呼び集めた馬が、最後に、自分が生まれて初めて走ったコースを、誰にも急かされずにもう一周した。
この馬が登場する物語
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