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セントライト
通算成績12戦9勝
生年月日 1938.04.02(昭和13年)毛色 黒鹿毛性 牡
全成績
主要戦績(抜粋)・新しい順| 年月日 | 着順 | レース | コース | 人気 | 騎手 | タイム | 映像 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 京都農林省賞典四歳呼馬 | 京都 芝3000 | 1人気 | 小西喜蔵 | 3:22.6 | — | |
| 2 | 古呼馬 | 京都 芝2400 | 1人気 | 小西喜蔵 | — | ||
| 1 | 横浜農林省賞典四・五歳呼馬 | 横浜 芝2800 | 1人気 | 小西喜蔵 | 3:08.0 | — | |
| 1 | 古呼馬 | 横浜 芝2200 | 2人気 | 小西喜蔵 | 2:30.6 | — | |
| 3 | 古呼馬特殊ハンデキャップ | 横浜 芝2200 | 2人気 | 小西喜蔵 | — | ||
| 1 | 八大競走東京優駿 | 東京 芝2400 | 2人気 | 小西喜蔵 | 2:40.2 | — | |
| 1 | 古呼馬 | 東京 芝2300 | 1人気 | 小西喜蔵 | 2:27.6 | — | |
| 2 | 古呼馬特殊ハンデキャップ | 東京 芝2300 | 3人気 | 小西喜蔵 | — | ||
| 1 | 呼馬 | 中山 芝2200 | 1人気 | 阿部正太郎 | 2:23.4 | — | |
| 1 | 呼馬 | 中山 芝2000 | 1人気 | 小西喜蔵 | 2:12.8 | — | |
| 1 | 横浜農林省賞典四歳呼馬 | 横浜 芝1850 | 1人気 | 小西喜蔵 | 1:59.2 | — | |
| 1 | 新呼馬 | 横浜 芝1700 | 7人気 | 小西喜蔵 | 1:53.0 | — |
血統
金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ| 父ダイオライト | Diophon | Grand Parade |
| Donnetta | ||
| Needle Rock | Rock Sand | |
| Needlepoint | ||
| 母フリツパンシー | Flamboyant | Tracery |
| Simonath | ||
| Slip | Robert le Diable | |
| Snip |
旅程 — この馬の物語
1938年生まれの黒鹿毛の牡馬。父ダイオライト、母フリツパンシー。
小岩井の黒鹿毛と、岩手の牧夫
1938年4月2日、岩手県雫石村の小岩井農場に、黒鹿毛の牡馬が生まれた。 父はダイオライト。イギリスの2000ギニーを勝ち、英クラシックの優勝馬としては初めて日本の土を踏んだ種牡馬である。ただし輸入された当初の評判は芳しくない。体型、とりわけ後ろ脚の形を不安がる声があり、成功を疑う空気が濃かった。その空気に真正面から噛みついた男がいる。出版社・非凡閣を営む馬主、加藤雄策だった。加藤は雑誌に「ダイオライト礼讃記」を寄せ、この種牡馬を熱狂的に擁護した。 母はフリツパンシー。1928年に小岩井農場が英国から買い入れた牝馬で、この仔が生まれたときには、すでに半兄のタイホウが11勝を挙げて名を知られていた。 1940年、小岩井のセリ。加藤はダイオライトの仔であるこの牡馬を競り落とす。だが玄人筋の評価は低かった。体高166センチ、推定体重500キロを超える馬体はスマートさに欠け、「ずんぐりむっくりの大型戦車」と揶揄された。「大尾形」と呼ばれた尾形藤吉も、セリ場で見て敬遠している。のちに日本中央競馬会の理事となる青木栄一は、黒い巨体が大きな蹄でノッシノッシと馬場に出てくる様子を、暗闇の牛のようだったと述懐した。 危うい話もある。日本競馬会は、体高164センチを超える馬の競走登録を認めていなかった。その規定が撤廃されたのは、この馬が登録される直前である。あと少し遅ければ、この馬はクラシックの舞台に立てないまま終わっていた。 この馬に乗ることになる男も、同じ岩手から出ている。小西喜蔵。1908年、岩手郡米内村の農家に十一人兄弟の次男として生まれた。高等小学校を出て岩手種馬所の牧夫になり、すぐ近くの小岩井農場に繋養されていたサラブレッドを見るうちに、その美しさに魅せられる。騎手になりたい。1926年に種馬所を辞め、新潟の調教師・田中和吉に弟子入りした。師はまもなく世を去る。1929年、その弟の田中和一郎が目黒に厩舎を開くと、小西は弟子に加わり、同じ年の秋に騎手としてデビューした。 少年が見とれた牧場と、黒鹿毛が生まれた牧場は、同じ場所だった。
一九四一年三月、横浜 ― 七番人気からの十五日
1940年9月、東京競馬場の田中和一郎厩舎に入る。同じ加藤の持ち馬で、その年の牝馬最高額だったブランドソールが僚馬にいた。小西の目には、ブランドソールのほうがよほど良く映ったという。セントライトのほうは、どこかもそっとして見えた。 厩舎の当初の計画では、仕上がりの早いブランドソールを春の横浜開催から使い、セントライトは4月の中山からのはずだった。ところが2月末の調教で、セントライトがブランドソールを抑えてしまう。加藤も強く望んだ。順番が入れ替わる。もし予定どおりに事が運んでいれば、クラシック初戦への出走機会そのものが無かった。小西はのちに、あれは運命的だったと語っている。 3月15日、横浜開催の初日。新呼馬戦――呼馬とは、馬主が自分で買った馬のことである――に、この馬は12頭立ての7番人気で出た。結果は2着に5馬身差。単勝の払い戻しは法定上限の200円に達し、馬券を外した客にまで7円50銭の特別給付金が配られた。 2週間後の3月30日、横浜農林省賞典四歳呼馬。のちの皐月賞である。当時の馬齢は数え方が違い、四歳とはいまの三歳を指した。同期の最高額馬ミナミモアを抑えて1番人気に推されると、そのミナミモアに3馬身の差をつけて勝った。 小西は驚いている。ミナミモアに勝てるとは思っていなかった。本当に強い馬だと思ったのはこのときからだ、と後年に振り返っている。 デビューから十五日で、この馬は一つ目の冠を持っていた。
五十八キロ、初めての黒星
4月は中山で二つ勝った。5日の2000メートル、27日の2200メートル。27日は小西ではなく阿部正太郎が乗っている。小西、岩下密政、阿部の三人は「田中和一郎厩舎の三羽烏」と呼ばれた。 5月3日、東京。古呼馬特殊ハンデキャップに58キロを背負って出た。シヂリダケにアタマ差の2着。四連勝で迎えた五戦目に、初めての黒星がつく。 一週間後、同じ東京の2300メートル。今度は61キロを背負わされた。ここでこの馬は、その年の秋に帝室御賞典――のちの天皇賞(秋)――を勝つ五歳馬エステイツを、アタマ差で退けている。 斤量が増えても、相手が古馬になっても走った。ダービーへの支度は、これで整った。
五月十八日、府中の重馬場
前夜まで雨が降っていた。馬場は重い。 一番人気はミナミモアだった。三月に横浜で負かした相手が、府中では上に立っている。セントライトはその次。中山四歳牝馬特別を勝ってきたブランドソールが、さらにその次に続いた。加藤の勝負服が、同じレースに二つ並んでいる。 発走。小西は行かせすぎず、三番手につけた。 道中、何も起こらない。この馬はどの位置からでも運べて、競り合いには滅法強い。だから小西は、動く場所を自分で選べた。 最終コーナー。手綱は抑えたままである。抑えたまま、黒鹿毛は先頭に出た。 残り二百メートル。そこで初めて、小西が仕掛ける。 重い馬場を、大きな蹄が掻いた。後続を、一気に突き離していく。 ゴール板を過ぎたとき、二着のステーツは八馬身うしろにいた。 「かういういひ方をすると生意気さうに聞こえるかも知れないが、セントライトの優駿競走制覇は、事実、文字通りの楽勝であった」[^1]。小西は『優駿』誌にそう書いている。道悪に恵まれた面はあったと認めながら、快晴の良馬場だったならレコードを少なくとも一秒は詰めていただろう、とも言い添えた。
出典:日本語版ウィキペディア「セントライト」(小西喜蔵の『優駿』誌への寄稿より引用)、https://ja.wikipedia.org/wiki/セントライト 、閲覧日:2026年8月3日。
六十六キロの秋
この八馬身は、1955年のオートキツと並ぶ、いまもダービー史上最大の着差である。小西にとっては初めてのダービー、調教師の田中と馬主の加藤にとっては、1939年のクモハタに次ぐ二度目の戴冠だった。 そのあとは休みに入る。秋の目標は決まっていた。春に勝った二つの冠に、三つ目を足すことである。日本の競馬で、その三つを揃えた馬はまだいなかった。 帰ってきた9月27日、横浜のハンデキャップ。斤量は66キロ。ダービーで八馬身ちぎったステーツより11キロ重い。結果は3着だった。 翌週も同じ66キロで走り、春に破ったエステイツをもう一度負かす。さらに一週後の10月12日、2800メートルの横浜農林省賞典四・五歳呼馬をクビ差で制した。 そして西へ向かう。馬運車のない時代である。貨車に揺られて二泊三日。長旅を終えたこの馬は、けろっとした顔で降りてきたという。府中から横浜まで自分の脚で歩いていったときには、普通の馬が八時間で着く道を九時間かけている。速い馬ではなかった。ただ、丈夫だった。田中和一郎は、こんなに疲労回復が早い馬は見たことがないと驚いていたという。 京都に着いて四日目、前哨戦に68キロを背負って出た。三頭立て。60キロのコクチョウに二馬身離されて2着。数字だけ見れば負けである。だが、この一叩きで馬の状態は上向いた。
十月二十六日、京都 ― 三冠と呼ばれなかった三冠
10月26日、京都農林省賞典四歳呼馬。のちの菊花賞である。 出走は六頭。地元の二頭に、関東から遠征してきたミナミモア、ステーツ、そして阪神優駿牝馬(オークス)を勝ったテツバンザイ。1番人気は、当然のようにセントライトだった。 重い馬場の3000メートルを二番手で運び、ゴールではミナミモアに二馬身半の差をつけた。三冠の三競走が整備されて四年目、初めて一頭がそのすべてを勝った。 ところが、翌日の紙面は静かだった。扱いはダービーのときより遥かに小さい。三冠という概念そのものが、まだ日本に根づいていなかったからである。『優駿』誌はこの馬を「三栄冠馬」と呼んだ。加えて、国内は支那事変から太平洋戦争へ向かう緊張のただ中にあった。その年の12月、戦争が始まる。 小西が三冠の三競走で受け取った進上金――騎手の取り分である――は2700円だった。現金では支払われていない。償還期間十年の国債である。四年後、日本の敗戦とともに紙屑になった。 デビューから三冠まで、二百二十五日。当時は二歳戦が行われておらず、すべてが一年のうちに起きた。日本のクラシック三冠馬は八頭を数えるが、デビューから引退までが同じ一年に収まっているのは、いまもこの馬だけである。
七十二キロ ― 惜しげもなく
次の目標は帝室御賞典に定まった。当時、ダービーと並ぶ最高の競走である。その前に、中山でハンデキャップを一つ使う予定だった。 ところが、そのハンデキャップで課される斤量が72キロだと判明する。 「4歳馬に72kgも背負わせるぐらいならば」[^1]。加藤はそう言って、帝室御賞典に未練を残さずセントライトを引退させた。十二戦九勝。三冠馬のなかで、三つ目の冠のあと一度も走らずに引退したのも、この馬だけである。 加藤は前にも同じことをしている。二年前のクモハタでも、帝室御賞典で2着になったあと再挑戦させずに引退させた。加藤に競馬を教えた作家・菊池寛は、賞金を稼がせるつもりならまだ使えるのに惜しげもなく引退させてしまう、名馬はそういう人に持たれてはじめて終わりを全うできるのかもしれない、と賛辞を送っている。 その加藤は、三年半後に死ぬ。1945年5月25日、東京の空襲で被害を受け、翌日に息を引き取った。 セントライトは小岩井農場に戻り、種牡馬になった。産駒からはオーライト、オーエンス、セントオーの三頭が八大競走を勝ち、セントオーの菊花賞は父子制覇になった。ただし1949年、三菱財閥の解体にともなって小岩井農場がサラブレッド生産を禁じられると、この馬は岩手畜産試験場へ移される。生まれた岩手へ帰ったことになるが、以後は配合相手の質が落ち、晩年に目立つ産駒は出ていない。 血の格は、弟たちのほうがよく語る。1942年、半弟のアルバイト――のちのクリヒカリ――が横浜農林省賞典四歳呼馬を勝ち、兄弟連覇を果たした。乗っていたのは小西である。1949年には、母の最後の産駒トサミドリが同じ一冠を、皐月賞と名を変えたその競走で勝った。三兄弟が同じクラシックを制した例は、いまも日本にこれしかない。母フリツパンシーはのちのGI級競走を勝つ産駒を四頭出し、うち二頭が顕彰馬に選ばれている。これもほかに例がない。
出典:日本語版ウィキペディア「セントライト」(『日本の名馬・名勝負物語』1980年 を出典とする加藤雄策の発言)、https://ja.wikipedia.org/wiki/セントライト 、閲覧日:2026年8月3日。
名前になった三冠
1947年、日本競馬会は東京競馬場に新しい重賞をひとつ作り、セントライト記念と名づけた。第一回は10月12日、芝2400メートル。勝ったのはイーストパレードという牡馬で、管理していたのは田中和一郎、鞍上は小西喜蔵だった。三冠を勝たせた厩舎と騎手が、その馬の名を冠したレースの第一回も勝ったことになる。 国債は紙屑になったが、男は鞍に戻っていた。戦後に競馬が再開された1946年10月17日、東京の第1競走を勝ったのも小西である。1950年に騎手を辞め、調教師になった。 1964年、シンザンが二十三年ぶり二頭目の三冠を達成する。その数か月後の1965年、セントライトは岩手畜産試験場で老衰のため死んだ。 同じ年の暮れ、有馬記念。小西が管理するミハルカスが逃げ、四コーナーでシンザンが並びかけた。鞍上の加賀武見は、シンザンに内の悪い馬場を走らせようと外のラチ近くまで持ち出す。シンザンはさらにその外を回って、かわし切った。 レースのあと、小西は勝った側の調教師・武田文吾に歩み寄って言った。「シンザンを超える馬は当分出てこないだろう」[^1] 日本で最初の三冠がどれほどのものだったかを、二十三年のあいだ誰よりよく知っていたはずの男が、負けた側から二頭目を認めた。初めての三冠は、そうやってようやく言葉になった。 三冠を勝った秋、新聞はそれを小さくしか書かなかった。かわりに残ったのは名前だった。毎年秋、中山の芝でその名が呼ばれる。菊花賞を目指す三歳馬たちが、黒鹿毛の名を冠したレースを勝って淀へ向かう。小さくしか報じられないまま開いた扉を、戦後ずっと、若い馬たちがくぐり続けている。
出典:日本語版ウィキペディア「小西喜蔵」(吉永みち子『シンザン物語 蹄跡よ永遠に』1995年 ほかを参考文献とする)、https://ja.wikipedia.org/wiki/小西喜蔵 、閲覧日:2026年8月3日。
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