名馬の記憶を、
再生する。

年表ICHINEN-ISSO — 2400m

BOKUJŌ-CHŌ — HOKKAIDO

牧場帖

一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。
HORSES

名馬録

この世代(生まれ年)

スライダーを動かすと、その世代に生まれた馬を獲得賞金の多い順で表示します。

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サクラチヨノオーのイメージビジュアル
サクラチヨノオーSakura Chiyono O
Sakura Chiyono O

サクラチヨノオー

通算成績10戦5勝

獲得賞金2890万円

生年月日 1985.02.19(昭和60年)毛色 鹿毛

全成績

主要戦績(抜粋)・新しい順
サクラチヨノオーの成績一覧
年月日着順レースコース人気騎手タイム上り3F映像
16 GI宝塚記念 阪神 芝2200 4人気 小島太 2:18.8 上り53.8映像
16 GI安田記念 東京 芝1600 3人気 小島太 1:37.7 上り51.7映像
1 GI東京優駿 東京 芝2400 3人気 小島太 2:26.3 上り47.9映像
3 GI皐月賞 東京 芝2000 2人気 小島太 2:01.5 上り48.4映像
1 GII報知杯弥生賞 東京 芝2000 2人気 小島太 2:01.1 上り47.5
4 GIII共同通信杯4歳S 東京 芝1800 1人気 小島太 1:48.4 上り48.6
1 GI朝日杯3歳S 中山 芝1600 1人気 小島太 1:35.6 上り35.7映像
2 OPいちょう特別 東京 芝1600 1人気 小島太 1:38.2 上り49.4
1 OP芙蓉特別 中山 芝1600 1人気 小島太 1:35.8 上り38.1
1 3歳新馬 函館 芝1000 1人気 小島太 0:59.5 上り36.1

血統

金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ
サクラチヨノオーの血統表(左から親・祖父母・曽祖父母)
マルゼンスキーMaruzenskyNijinskyNorthern Dancer
Flaming Page
シルShillBuckpasser
Quill
サクラセダンセダンSedanPrince Bio
Staffa
スワンズウッドグローヴSwanswood GroveGrey Sovereign
Fakhry
STORY

旅程 — この馬の物語

1985年生まれの鹿毛の牡馬。父マルゼンスキー、母サクラセダン。主な勝ち鞍は朝日杯3歳S・東京優駿・報知杯弥生賞。

静内の七番仔 ― 脚が曲がっていなかった

1985年2月19日、北海道静内の谷岡牧場で、サクラセダンの七番仔が生まれた。父はマルゼンスキー。鹿毛の牡馬だった。 この組み合わせには前例がある。同じ父母から生まれた三番仔サクラトウコウが、1983年の函館3歳ステークスを勝っていた(のちに七夕賞も制している)。牧場主の谷岡幸一は、その走りを見てもう一度マルゼンスキーを選んだ。 生まれた仔には、当時のマルゼンスキー産駒に多かった弱点がなかった。脚が曲がっていない。谷岡はそこに手応えを感じた。胴は兄より長く、長い距離もこなすのではないかと考えた。 サクラトウコウを預かっていた美浦の境勝太郎が牧場を訪れ、この仔を高く評価する。すると生後わずか数日で、馬主はさくらコマースの全演植、厩舎は境、鞍上は小島太と決まってしまった。この三人の組み合わせは、当時の競馬界で「サクラ」のトライアングルと呼ばれていた。 名は、冠名のサクラに、その頃の横綱・千代の富士を重ねた。サクラチヨノオー。 父マルゼンスキーは、外国で受胎して日本で生まれた「持込馬」という当時の規定により、日本ダービーに出走できなかった。八戦八勝、無敗のまま。父が立てなかった舞台に仔が立つのは、三年後のことになる。

和解の夏 ― 一九八七年、函館

デビューの前に、鞍上のほうに事件があった。 1987年の春、小島太と全演植は絶縁状態にあった。好景気に乗って高額馬を買い集めていた別の馬主との付き合いが増え、十年以上続いた関係に亀裂が入っていた。 代償は具体的だった。小島はサクラスターオーのデビューから三戦に騎乗していたが、四戦目の弥生賞を前に降ろされる。代わって手綱を取った東信二が、その馬で皐月賞と菊花賞を勝った。年度代表馬になる二冠が、小島の手をすり抜けていった。 仲を取り持ったのは、同じ高木良三厩舎で育った弟弟子の調教助手・松本重春だった。松本は小島に、もう和解しないとまずい、サクラチヨノオーという馬は大仕事をやる気がする、めったに顔を出さないオーナーがわざわざローカル開催まで来るのだから乗ってくれ、と説いたと伝わる。数か月のうちに二人は和解した。 だから1987年8月8日、函館の芝1000メートルの新馬戦には、内定どおり小島が乗っている。1番人気。二番手から直線で先頭に立ち、三馬身半を離した。小島はこの馬について、物見をする、斜行する、と癖を並べたうえで、能力はある、距離は長いほうがいい、と評した。 秋、中山の芙蓉特別を二馬身半差で連勝。続く東京のいちょう特別は初めての不良馬場で、進路も取れないまま二馬身半差の2着に終わった。生涯十戦のうち、この馬が先頭でゴールを通らなかった、最初の一度である。

雪で二週間ずれた朝日杯

その年の12月、関東は雪に覆われた。6日の開催が中止になり、13日に振り替えられたが、その日も2レースで打ち切り。朝日杯3歳ステークスは20日まで、二週間ずれ込んだ。 その延期のあいだに、小島のもとへ北海道の実家から報せが入る。父が危篤だという。小島は生まれ育った小清水へ帰り、父の最期を看取り、葬式を出し、水曜日に美浦へ戻った。 延期と有力馬の故障が重なって、朝日杯は六頭立てになった。単勝1.9倍の1番人気。二コーナーからツジノショウグンと馬体を併せ、直線もそのまま二頭で来る。中山の坂の頂上でようやく前に出て、クビ差。重賞の初勝利が、そのままGIの初勝利になった。 父マルゼンスキーも1976年にこのレースを勝っている。親仔制覇だった。境はこれまでにない大物だと評し、そのうえで腹回りの充実と馬体重の増加を次の課題に挙げた。 ただ、この日の主役は西にいた。同じ日の阪神3歳ステークスで、サッカーボーイが同じ1600メートルを1分34秒5のレコードで駆けている。年末の記者投票は127票対15票。最優秀3歳牡馬はサッカーボーイのものになった。専門誌のフリーハンデでも、サッカーボーイの56に対しサクラチヨノオーは55。関東の一番ではあっても、世代の一番ではない。それが年の変わり目の評価だった。

東京で走った皐月賞

1988年の2月、中山競馬場はメインスタンドの改築工事に入った。そのためこの年の弥生賞と皐月賞は、東京競馬場で行われている。左回りで、長い直線の途中に坂を持つコースでのクラシックだった。 始動戦の共同通信杯4歳ステークスは1番人気で4着。逃げるミュゲロワイヤルを好位から追いかけたが、伸びずに二頭にかわされた。境は仕上げを軽くしすぎたと敗因を語り、次は厳しく攻めた。 弥生賞は、東西の三歳王者の初対決になった。サッカーボーイが1.6倍の1番人気、サクラチヨノオーは5.5倍の2番人気。単枠指定を受けたのはサッカーボーイとトウショウマリオで、この馬には付かなかった。 ゲートが開くと、誰も先に行かなかった。小島は仕方なくハナに立ち、1000メートルを1分1秒8で通過する。追ってくる気配がない。直線の途中で後ろを振り返る余裕さえ見せ、そのまま二馬身差で逃げ切った。境はジョッキーの作戦勝ちだと言った。世間もそう受け取り、負けたサッカーボーイの評価は下がらなかった。 皐月賞は1枠2番。二頭が競り合って逃げ、1000メートルの通過は59秒8。サクラチヨノオーは離れた三番手で運び、直線で坂にかかる手前、脚の上がった逃げ馬をかわして先頭に立つ。ここまでは筋書きどおりである。 そこから伸びなかった。坂の途中で、後方から来た9番人気のヤエノムテキと14番人気のディクターランドに交わされる。3着。勝ち馬との差は、馬体一つと少しだった。 紙面の評価は急落した。早熟だ、クラシック向きではない、あの内容ではダービーは望めない――そういう見方が並んだ。

無印 ― 五月の二週間

5月12日、サクラスターオーが死んだ。 前年の二冠馬である。暮れの有馬記念で左前脚を壊し、予後不良と宣告されながら、全演植と調教師の平井雄二は延命を選んだ。特別の医師団が組まれ、闘病は137日に及ぶ。有馬記念のとき450キロあった馬体は、脚への負担を減らすために300キロを割るまで絞られていた。この日、両前脚が脱臼して起立できなくなり、夜のうちに安楽死の処置がとられている。 父はサクラショウリ。小島が1978年に初めてダービーを勝った馬である。その仔の手綱は、絶縁の期間に小島の手から離れたまま、ついに戻らなかった。 ダービーは、その十七日後だった。 小島にはもう一つ、生々しい記憶があった。前週のオークス。スイートローザンヌで理想の位置につけ、勝ったと思った瞬間に骨折が起きた。競走中止、予後不良。 レースの数日前、渋谷のNHKホールで開かれた「ダービーフェスティバル'88」では、スポーツ紙六紙の記者が合同で予想を披露した。出席した記者は全員がサクラチヨノオーを無印にした。論外、問題外――三着以内にも入らない、という意味である。 当日の東京競馬場には15万9158人が入った。投じられた馬券は260億9266万6100円。ダービーとしても中央競馬全体としても、当時の最高額である。1番人気はサッカーボーイ。サクラチヨノオーは9.4倍の3番人気で、二枠五番のゲートに入った。

残り二百メートル

晴れ。芝は良。府中の二千四百メートルに、二十四頭が並んだ。 大外のアドバンスモアが、ゲートを出るなり突き放しにかかる。ふつうの逃げではなかった。第一コーナーを回るとき、サクラチヨノオーはその背中を七、八馬身も後ろに見ている。それでも小島は追わなかった。 向正面で息が入る。三コーナーの手前で、大逃げの脚が上がった。前が近づいてくるのではない。前が落ちてくる。四コーナーを回るころ、サクラチヨノオーは先頭の一角にいた。ここまでは弥生賞と同じ形である。 府中の直線は長い。半ばに坂があり、上りきってからが本当の勝負どころになる。 その坂の途中で、三方から足音が来た。内からメジロアルダン。外からコクサイトリプル。いちばん外からヤエノムテキ。皐月賞で背中から差された記憶が、そのまま形になったような包囲だった。 そして残り二百メートル、内のメジロアルダンが出た。半馬身。先頭が入れ替わる。 ふつうならここで終わる。六週間前、この同じ坂で、この馬はまさにこの局面から止まっているのだ。 小島は慌てなかった。まず右の後ろを見た。コクサイトリプルがどこにいるかを確かめた。確かめてから、はじめて追った。 のちに小島は、仕掛けるという言葉についてこう語っている。「競馬っていうのは、手を動かしたから仕掛けたとか、ステッキで叩いたから仕掛けたというものじゃないんだ。乗ってる者の気持ちがハッとしたら、それが馬に伝わる。仕掛ける、というのはそういうことなんだよ」[^1] 伝わったのだとしか言いようがない。一度かわされた馬が、もう一度伸びた。半馬身が縮み、首の分が縮み、ゴール板の直前で前後が入れ替わる。クビ差。 時計は二分二十六秒三。それまでのダービーのレコードを塗り替える数字だった。父が出走を許されなかったレースを、その仔が、それまでの誰よりも速く走って勝ったことになる。

出典:Number Web(文藝春秋)島田明宏「小島太「俺はサクラの馬、境厩舎」名騎手、名調教師だった男の定年。」2018年2月10日配信、https://number.bunshun.jp/articles/-/829889 、閲覧日:2026年8月3日。

三百五十日 ― 兄が休み、弟が勝つ

ダービーのあと、右前脚に浅屈腱炎が出た。脚の腱を痛める故障で、競走馬にとっては最も戻りにくい部類に入る。菊花賞のある秋は、丸ごと空白になった。 その空白のあいだに、同じ牧場の、同じ厩舎から、もう一頭が出てきた。半弟のサクラホクトオーである。父はトウショウボーイだが、母は同じサクラセダン、鞍上も同じ小島太。1988年12月、この弟が朝日杯3歳ステークスを勝った。兄が勝ったのと同じレースを、兄が休んでいる年に弟が勝ち、兄弟で同じGIを連覇したことになる。 復帰は1989年5月14日、東京の安田記念だった。ダービーから三百五十日。長い休み明けにもかかわらず3番人気に支持されたが、16着に沈む。 続く宝塚記念は阪神の芝2200メートル。レースの途中で故障が起き、失速して最下位に終わった。屈腱炎の再発だった。これで競走馬としては終わりになる。6月25日、札幌競馬場で引退式が行われた。 走ったのは十戦、勝ったのは五つ。その五つ目が、府中の二千四百メートルだった。

完璧な騎乗

境勝太郎は、娘婿の騎乗に甘い人ではなかった。小島は1976年ごろに境の長女と結婚している。それでも境は、この娘婿のせいで失った賞金は何億円になるか分からないと言い、調教師席で何度倒れそうになったかと嘆いた。苦言は生涯にわたって残っている。 その境が、手放しで褒めた騎乗が二つだけある。サクラユタカオーで勝った天皇賞(秋)と、サクラチヨノオーで勝った日本ダービー。どちらも馬の実力以上のレースだったとし、完璧な騎乗で勝たせてもらったことに感謝している、と述べている。 馬の実力以上――本当にそうだろうか。残り二百メートルで前に出られたあと、もう一度伸びたのは馬のほうである。人が気持ちを送り、馬がそれを受け取った。あの数秒を、どちらか一方の手柄に切り分けることはできない。 厩舎開業から二十二年目にして、境は初めてクラシックを勝った。この日、境は人前で泣いた。自分の父を送ったときにも見せなかった涙だったという。スタンドには小島の母がいた。前の年の暮れに亡くした夫の遺影を抱えて、府中まで来ていた。 サクラチヨノオーは1990年から静内で種牡馬になり、初年度産駒のサクラスーパーオーが皐月賞2着まで走った。2002年に種牡馬を退き、去勢されて功労馬になる。小島は1996年に騎手を引退し、翌年、定年を迎えた義父の厩舎をそのまま引き継いだ。あの夏に仲を取り持った松本重春も、その厩舎へ移っている。のちに小島が管理して札幌記念と中山記念を勝つサクラプレジデントは、サクラチヨノオーの全妹セダンフォーエバーの仔だった。かつて自分が乗った馬の甥を、今度は自分の厩舎で走らせたことになる。 2012年1月6日、サクラチヨノオーは立ち上がれなくなった。翌7日、老衰で死んだ。二十七歳だった。 昭和最後のダービー馬として名は残る。だが、この馬がいまも呼び出されるのは、勝ったからではない。一度先頭を譲り、譲ってから取り返したからだ。二十七年の生涯でいちばん長く語られたのは、負けていたあの数秒のほうだった。

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