名馬の記憶を、
再生する。

年表ICHINEN-ISSO — 2400m

BOKUJŌ-CHŌ — HOKKAIDO

牧場帖

一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。
HORSES

名馬録

この世代(生まれ年)

スライダーを動かすと、その世代に生まれた馬を獲得賞金の多い順で表示します。

名馬録
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サクラローレルのイメージビジュアル
サクラローレルSakura Laurel
Sakura Laurel

サクラローレル

通算成績22戦9勝

獲得賞金62,689万円

生年月日 1991.05.08(平成3年)毛色 栃栗毛

全成績

主要戦績(抜粋)・新しい順
サクラローレルの成績一覧
年月日着順レースコース人気騎手タイム上り3F映像
8 GIIIフォア賞 フランス 芝2400 武豊
2 GI天皇賞(春) 京都 芝3200 1人気 横山典弘 3:14.6 上り35.0映像
1 GI有馬記念 中山 芝2500 1人気 横山典弘 2:33.8 上り36.5映像
3 GI天皇賞(秋) 東京 芝2000 1人気 横山典弘 1:58.9 上り34.1映像
1 GII産経賞オールカマー 中山 芝2200 2人気 横山典弘 2:16.7 上り36.6
1 GI天皇賞(春) 京都 芝3200 3人気 横山典弘 3:17.8 上り34.7映像
1 GII中山記念 中山 芝1800 9人気 横山典弘 1:47.2 上り34.8
2 GII目黒記念 東京 芝2500 1人気 小島太 2:31.2 上り35.9
1 GIII日刊スポーツ賞金杯 中山 芝2000 2人気 小島太 2:00.5 上り36.4
1 冬至S 中山 芝2500 1人気 小島太 2:33.5 上り35.1
1 比良山特別 京都 芝2200 1人気 小島太 2:14.1 上り34.4
2 秋興特別 東京 芝2000 1人気 小島太 2:01.5 上り34.1
2 六社特別 東京 芝1800 1人気 小島太 1:47.5 上り34.5
8 GIIセントライト記念 中山 芝2200 2人気 的場均 2:17.0 上り36.9
3 佐渡S 新潟 芝2000 2人気 小島太 2:01.3 上り36.0
3 GIIIテレビ東京杯青葉賞 東京 芝2400 3人気 小島太 2:28.9 上り35.0
1 4歳500万下 中山 ダ1800 1人気 小島太 1:53.9 上り37.7
2 4歳500万下 中山 ダ1800 2人気 O.ペリエ 1:54.1 上り38.7
6 春菜賞 東京 芝1600 4人気 小島太 1:35.9 上り35.7
1 4歳未勝利 東京 ダ1400 1人気 小島太 1:26.6 上り37.1
3 4歳新馬 中山 芝1600 2人気 小島太 1:37.8 上り38.1
9 4歳新馬 中山 芝1600 1人気 小島太 1:37.9 上り37.6

血統

金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ
サクラローレルの血統表(左から親・祖父母・曽祖父母)
Rainbow QuestBlushing GroomRed God
Runaway Bride
I Will FollowHerbager
Where You Lead
ローラローラLola LolaSaint CyrienLuthier
Sevres
Bold Ladyボールドラツド
Tredam
STORY

旅程 — この馬の物語

1991年生まれの栗毛の牡馬。父Rainbow Quest、母ローラローラ。主な勝ち鞍は天皇賞(春)・有馬記念・日刊スポーツ賞金杯。

おまけの一頭 ― 一九九一年、静内

全演植は、凱旋門賞を勝ちたかった。自分の持ち馬で、ロンシャンの2400メートルを。 そのためにフランスへ渡り、競走馬を二十頭ほどまとめて買っている。その荷の中に、ほとんど「おまけのように」一頭の牝馬が混じっていた。ローラローラという。現地で六戦して一勝。準重賞のセーヌ賞で三着に来たのが最上の成績だった。 繁殖に上がったこの牝馬の二年目の相手を、全は自分で決めた。レインボウクエスト。1985年の凱旋門賞馬である。凱旋門賞馬の仔で凱旋門賞を獲りたい――理屈は単純で、願いは重い。受胎が確認されてから、母は日本へ運ばれた。 1991年5月8日、北海道静内町の谷岡牧場でその二番仔が生まれた。父は海の向こうに残り、母の腹だけが海を渡ってきた持込馬である。生まれた直後に居合わせた調教師の境勝太郎は、皮膚が薄くきれいで、鼻の穴が大きく、馬相のいい馬だと見ている。 冠名のサクラに、ローレルがついた。月桂樹。勝った者の額に載せる葉である。 その年の暮れから当歳の世話をしたのは、谷岡牧場で研修していた二十歳の青年だった。名を小島良太という。母方の祖父が境勝太郎、実父は「サクラ」の勝負服で鳴らした騎手の小島太。良太はその仔を、母の名から取って「ローラ」と呼んだ。細くて長い、後ろ脚を鶏のように持ち上げて歩く、ひょろとした不格好な馬だったと彼は言っている。 ローラローラの初仔はこの馬の半姉にあたる牝馬で、父はファビュラスダンサー。その子孫からはエピセアローム、スターアニス、カポーティスターが出ている。血は静かに続いていた。 そして1993年12月、全演植が世を去る。この馬がゲートに入るのは、その翌月である。おまけとして連れ帰った牝馬の仔が走るところを、彼は一度も見ていない。

引き受け手 ― 一九九四年

厩舎が、なかなか決まらなかった。 さくらコマースの馬の多くは境厩舎に入る。ところが境は、日本でまだ実績のないレインボウクエストの産駒を引き受けるのをためらった。行き先が決まらないまま季節が過ぎ、境厩舎にいたサクラの一頭が故障して馬房が空いたとき、その埋め合わせとしてようやく話が回ってきた。残り物として、この馬は美浦へ入った。 体質が弱く、飛節も弱かった。出走できる状態になるまで時間がかかり、デビューは1994年1月6日まで延びる。中山の芝1600メートル、一番人気で九着。骨膜炎を抱えたままの初陣だった。九日後、同じ舞台で三着。 脚元を考えて、三戦目からダートに替えた。1月30日、東京の1400メートル。五番手から直線で大外に持ち出し、三馬身突き放して初勝利。芝に戻した春菜賞は六着だった。3月6日、中山のダートでタイキブリザードに四分の三馬身およばず二着。このとき乗っていたオリビエ・ペリエは、勝った馬も強いがこの馬も強い、芝向きではないか、と言い残している。3月26日、同じ舞台を好位から抜け出して二馬身半。条件は三戦で抜けた。 4月30日、青葉賞。三番人気。中団後方から直線は最内を突いて追い上げたが、エアダブリンに届かず三着。それでもダービーの優先出走権は手に入れた。 そのダービーには出られなかった。右後肢の球節に炎症が出たのである。笹針を打たれ、この馬の春は終わる。 秋は佐渡ステークスの三着から始まり、セントライト記念で八着に沈んだ。六社特別二着、秋興特別二着。京都の比良山特別でようやく勝ち、暮れの冬至ステークスで中山の2500メートルを勝った。デビューの年は、そういう一年だった。

金杯と、心残り ― 一九九五年一月

年が明けて五日、中山。重馬場の金杯(東)に二番人気で出た。 逃げ馬が飛ばす流れを中団で見て、三コーナーから大外を回って上がっていく。失速する先行勢を呑み込み、四コーナーは一番人気のオフサイドトラップと並んで通過した。直線でその馬を突き放して二馬身半。三連勝で重賞を獲った。 新馬戦からほとんどの鞍に跨ってきた小島太は、三コーナーでハミを取らせた瞬間に行きっぷりが他と違った、そこでもう勝ったと思った、と振り返っている。大目標は春の天皇賞だと言い切った。境も、生産者の谷岡康成も、同じ方角を見ていた。まだ一度も走り合っていないナリタブライアンの名が、この日の談話に出ている。 2月19日、目黒記念。単勝1.5倍。中団から三コーナーで位置を上げ、好位で直線を向いた。早めに抜け出したところへ、六番人気のハギノリアルキングが外から並びかけてくる。競り合いに敗れてクビ差の二着。勝った馬はコースレコードを出し、負けたこの馬もそれまでのレコードを上回る時計で走っていた。 のちに調教師を退いた境は、井崎脩五郎からこの冬のことを訊かれている。あの金杯の強さなら、すぐ海外へ出しても通用したのではないか、と。境は、行きたかった、と答えた。GIIIをひとつ勝ったばかりの馬に遠征の話を持ち出せば笑われると思って、言い出せなかった。あれが調教師生活でいちばんの心残りだ、と。 海の向こう、という言葉は、この馬のまわりに最初からあった。ただ、そこへ続く道はまだ一度も開かない。

両前脚 ― 栗東の四月

天皇賞(春)に向けて、栗東へ移った。そこで、調教中に両前脚を折った。 深管骨折とも、第三中手骨の骨折とも伝えられる。下された診断は、競走能力の喪失に等しい、というものだった。走る力の話にとどまらず、命が危なかった。治療で一命は取り留めている。 競走能力喪失と言われた馬は、たいていそこで終わる。境は終わらせなかった。この馬が持っているヨーロッパの血と、その能力を、諦めきれなかった。療養は厩舎で行うことになった。 長い療養のあいだに、担当厩務員の佐々木里司が定年で厩舎を去る。境は後任を募った。手を挙げる者はいなかった。走れるかどうかも分からない故障馬の世話である。 そこで境は、自分の孫を指名した。 小島良太は、静内であの当歳を「ローラ」と呼んでいた青年である。あのあとヨーロッパで修業し、保田隆芳厩舎を経て、嶋田潤厩舎の調教助手になっていた。境は嶋田の了承を取ったうえで、孫を自分の厩舎に引き入れた。祖父の定年までは、一年七か月しか残っていない。 復帰はその年の暮れの予定だった。年明けのガーネットステークスに延び、球節に不安が出てまた延びた。馬房で過ごす日々は、一年を越えた。

三百八十四日 ― 中山記念

1996年3月10日、中山記念。 この一年のあいだに、鞍上が替わっていた。前月、小島太が騎手を引退したのである。新しい主戦を横山典弘にしてはどうか、と提案したのは良太だった。二人は幼馴染で、親友だった。 単勝19.5倍の九番人気。皐月賞馬ジェニュインが一番人気に推された一戦で、一年一か月ぶりの馬に賭ける者は多くない。 後方三番手から三コーナーで動き、四コーナーは先行勢の外へ持ち出す。内でジェニュインとペガサスが抜け出しにかかったところを、その外から一気に呑み込んだ。一馬身四分の三差。横山は入線の前に手綱を緩めている。 中384日での重賞勝ちは、スズパレードの中461日に次ぐ当時の歴代二位だった。そして良太にとっては、調教厩務員として初めての勝ち鞍が、いきなり重賞になった。 横山は、反応が凄い、並の馬じゃない、と言った。自分が持っていた印象とはまるで違っていた、とも。

二頭の背中 ― 四月二十一日、京都

淀の芝3200メートル。晴、良馬場。 その日の京都は、二頭のものだった。三冠馬ナリタブライアンと、菊花賞と有馬記念を連勝したマヤノトップガン。前哨戦の阪神大賞典をアタマ差で分け合った二頭に、単勝の支持も馬連の金も集まっていた。サクラローレルは三番人気。この二頭とは、まだ一度も走り合っていない。 ゲートが開く。前へ行った二頭が後続を大きく突き放し、馬群はそれを追わなかった。追う必要のない流れだった。サクラローレルは中団の内。すぐ近くにナリタブライアンがいる。 スタンド前を過ぎ、二周目の向正面。三コーナーの坂の手前で、マヤノトップガンが動いた。ナリタブライアンが呼応して上がっていく。坂を下りきったところでマヤノトップガンが逃げた二頭を捉え、ナリタブライアンが外から並びかけた。二頭は馬体を併せたまま、最後の直線へ入っていく。 その真後ろに、三頭目がいた。 横山はナリタブライアンを追いかけ、その背中から離れなかった。前の二頭が競り合っているあいだ、サクラローレルはただ、後ろで脚を溜めている。 直線の半ば。先に脚が上がったのはマヤノトップガンだった。ナリタブライアンが単独の先頭になる。その瞬間が、合図だった。 外へ持ち出す。並ぶ。かわす。そこから差は開く一方になった。3200メートルを走ったあとの最後の600メートル――上がり三ハロンという――を、この馬は34秒7で駆けている。 二馬身半。横山は左手を空へ上げて決勝線を通過した。 一年前、両前脚を折って生死の境にいた馬が、先頭でゴールを通っていた。

下手に乗った秋 ― 一九九六年、東京と中山

あの日、淀では記録が二つ生まれている。境勝太郎は前年秋の天皇賞をサクラチトセオーで勝っており、グレード制が入って以降、別々の馬で天皇賞を連覇した調教師は彼が初めてになった。横山典弘は天皇賞初制覇。父の横山富雄が1969年秋をメジロタイヨウ、1971年春をメジロムサシで勝っていたから、伊藤正四郎・正徳に次ぐ史上二組目の親子二代天皇賞制覇でもあった。 宝塚記念は使わなかった。暑い時期に無理をさせたくない、というのが理由である。厩舎で笹針を打たれ、夏を越えた。 秋はオールカマーから始めた。9月15日、重馬場の中山。中団から四コーナーを四番手で通過し、直線は内を突いて抜け出す。宝塚記念を勝ってきたマヤノトップガンら先行勢を突き放し、二馬身半差をつけて入線した。重賞は連勝になった。 10月27日、天皇賞(秋)。バブルガムフェローマヤノトップガンマーベラスサンデーも従えての一番人気だった。 そして、出遅れた。直線は外から追い込む形になり、勝負どころで前が空かない。内へ切り替えてから伸びたが、先に抜け出していたバブルガムフェローには半馬身以上とどかなかった。三着。 「最高に下手に乗った」[^1] 横山はそう振り返っている。境はこの敗戦に腹を立て、三十二年の調教師生活で初めて他厩舎所属の騎手を激しく叱った。それでも、次の鞍上は替えなかった。 ジャパンカップは見送った。秋に四戦させると馬に負担がかかるというのが境の判断で、良太のほうも、オールカマーを叩いてGIを三つは厳しいと考えていた。歴史のある二つを選ぶ、という選び方である。 12月22日、有馬記念。単勝2.2倍の一番人気。この日の中山には、ひとつのレースに投じられた額として世界一の875億円が集まった。のちにギネス世界記録として認定される数字である。 中団の内で我慢し、三コーナーで外へ出して進路を確保した。先行するマーベラスサンデーの直後で四コーナーを回る。直線で先頭を争っていたのはマヤノトップガンマーベラスサンデー。その外から、まとめてかわした。あとは独走で二馬身半。 前回は悔しい思いをしていたから自分自身のために負けられなかった、と横山は言った。この勝利は彼のJRA通算700勝目でもある。 境勝太郎は、死ぬまでに一度は有馬記念を勝ちたいと言っていた。定年を二か月後に控えた最後の暮れに、それが叶う。サクラチヨノオーもサクラユタカオーもサクラチトセオーも送り出してきた男が、この馬を最強と呼び、これほど強い馬は初めてだと言った。 この年、クラシックの五つのタイトルは五頭に分かれ、GIを二つ勝った馬はスプリントのフラワーパークだけだった。年度代表馬の行方は暮れまで決まらず、有馬記念がそれを決める。183票のうち179票。最優秀5歳以上牡馬のほうは満票だった。

出典:『優駿』(日本中央競馬会)1996年12月号・2006年1月号に掲載された横山典弘の述懐。ウィキペディア日本語版「サクラローレル」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%AB に引用、閲覧日:2026年8月3日。

化け物や ― 一九九七年四月二十七日、淀

2月28日、境勝太郎が定年で調教師を退いた。サクラローレルは小島太厩舎へ移る。かつてこの馬の手綱をいちばん多く取った男が、前年の二月に騎手をやめ、調教師になっていた。 有馬記念のあと、球節に軽い骨折が見つかっている。ドバイワールドカップへ向かう案もあったが、体調を考えて外した。調整が遅れ、ぶっつけで天皇賞(春)へ向かうことになる。 4月27日、淀。単勝2.1倍の一番人気。マヤノトップガンマーベラスサンデーと並んで「古馬三強」と呼ばれていた。 中団の外に待機し、向正面の半ばから外を回って進出する。三コーナーの坂を上がりながら二番手まで押し上げた。前年より強気の競馬だった。直線でマーベラスサンデーとの叩き合いになる。残り200メートルで一度かわされ、差し返した。二頭で決まったかに見えたところへ、大外からマヤノトップガンが飛んでくる。 勝ち時計は3分14秒4。ライスシャワーが持っていたレコードを2秒7も縮める、途方もない時計だった。サクラローレルは3分14秒6の二着。負けたその日に、前年までのレースレコードを大きく上回る時計で3200メートルを走っている。 三強と括られることに、良太は納得していなかった。実績が違うという思いが新聞を通じてマーベラスサンデーの厩務員・古川代津雄に伝わり、二人は言葉の応酬をするようになっていた。 そのレースのあと、尿検査場で顔が合う。先に口を開いたのは古川だった。 「勝った馬は展開の利があって勝ったけれど、アンちゃんの馬は化け物や」[^1] それきり、二人は分かり合う仲になった。マヤノトップガンの厩務員からも、君の馬がナンバーワンだ、外国へ行くんだろう、応援している、と声をかけられている。良太はその二つの言葉を今も忘れられないと語っている。

出典:月本裕『挑戦―サクラローレル物語』(アートン、1997年11月)。ウィキペディア日本語版「サクラローレル」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%AB に引用、閲覧日:2026年8月3日。

シャンティイのカレンダー

凱旋門賞は、亡き全演植の夢だった。日本で調教された馬の挑戦は、1969年のスピードシンボリ、72年のメジロムサシ、86年のシリウスシンボリに続いて二十八年ぶり、四頭目になるはずだった。 8月、フランスへ渡り、シャンティイ競馬場の近くの調教場に入った。鞍上は武豊に決まる。前走の騎乗が問題になったわけではない。横山に海外での騎乗経験がほとんど無かった、という一点だった。 小島太は若いころからフランスで乗っている。1986年、自分が選んでさくらコマースに買わせたサクラレイコがモルニ賞を勝ったとき、その鞍には跨らせてもらえなかった。現地のタフな馬場と厳しい流れを知っている騎手でなければ、本気で凱旋門賞は獲れない。海の向こうで味わってきた悔しさから出た結論である。当初はフレディ・ヘッドに依頼する予定だったが、彼の電撃引退で白紙になり、ロンシャンでGIを勝っている武に話が向いた。 良太は納得していなかった。この馬の背には横山典弘が乗るものだと思っていた。 それを気にしたのは、横山のほうである。ドーヴィルの日仏騎手対抗に出たあと帰国を遅らせ、シャンティイの馬房を訪ねてきた。そして自分の目の前で、良太と武に握手をさせた。 帰りぎわ、馬房の横に吊るされていたカレンダーへ、こっそり書き置きを残していった。 「良太とローレル頑張れ!」[^1]

出典:月本裕『挑戦―サクラローレル物語』(アートン、1997年11月)。ウィキペディア日本語版「サクラローレル」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%AB に引用、閲覧日:2026年8月3日。

ロンシャンの九月

9月14日、フォア賞。凱旋門賞の前哨戦である。現地の新聞二十三紙のうち七紙がこの馬を本命に推し、単勝2.8倍の一番人気に支持された。武は、ロンシャンコースの追い切りのつもりで乗ってくる、と言っていた。 三、四番手を進んだ。そして直線で、後退した。最下位の八着で入線した直後、武は下馬している。翌日の精密検査で、右前脚の屈腱不全断裂と分かった。 現地の獣医師は、薬殺を宣言した。 良太が、それを止めた。 凱旋門賞には出走せず、フランスで引退が決まる。12月20日、中山で引退式が行われた。北海道へ帰る馬運車が来るまで一時間ほどあったが、良太は別れが辛くて先に馬房を離れている。かわりにサクラローレルを見送ったのは、その春に淀の尿検査場で声をかけてきた古川代津雄だった。 静内で種牡馬になり、産駒からはローマンエンパイアが京成杯を、サクラセンチュリーが日経新春杯とアルゼンチン共和国杯を勝った。母の父としては、帝王賞と川崎記念とJBCクラシックを勝ったケイティブレイブがいる。 谷岡牧場で「ローラ」と呼ばれたひょろ長い馬は、二度、終わりを告げられている。一度目は栗東の調教で両前脚を折ったとき。二度目はロンシャンの検査室で。一度目を認めなかったのは祖父で、二度目を認めなかったのは孫だった。この馬が語り継がれるのは、三冠馬を差し切ったからだけではない。差し切れる場所まで、人が二度、連れ戻してきたからである。 良太はそのまま美浦に残った。調教助手としてマンハッタンカフェやイーグルカフェの調教に跨り、2002年には『調教助手の仕事』という一冊を書いている。競馬の本として初めて日本図書館協会の選定書に入った。厩舎で馬を世話する人間の仕事を、外の人間に読ませるための本だった。手を挙げる者のいなかった馬房から始まった男の、それが答え方だった。 サクラローレルは2020年1月24日の朝、北海道新ひだか町の新和牧場で息を引き取った。29歳、老衰だった。凱旋門の月桂冠は、とうとうこの馬の額には載らなかった。載らないまま、名前のほうは最後まで月桂樹だった。

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