名馬の記憶を、
再生する。

年表ICHINEN-ISSO — 2400m

BOKUJŌ-CHŌ — HOKKAIDO

牧場帖

一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。
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この世代(生まれ年)

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シンザンのイメージビジュアル
シンザンShinzan
Shinzan

シンザン

通算成績19戦15勝

生年 1961(昭和36年)毛色 鹿毛

全成績

主要戦績(抜粋)・新しい順
シンザンの成績一覧
年月日着順レースコース人気騎手タイム映像
1 八大競走有馬記念 中山 芝2600 1人気 松本善登 2:47.2 映像
2 オープン 中山 芝2000 武田博
1 八大競走天皇賞(秋) 東京 芝3200 1人気 栗田勝 3:22.7
1 重賞目黒記念(秋) 東京 芝2500 栗田勝
1 オープン 阪神 芝1850 武田博
1 重賞宝塚記念 阪神 芝2000 1人気 栗田勝 2:06.3
1 オープン 阪神 芝1850 武田博
1 オープン 阪神 芝1600 武田博
1 八大競走菊花賞 京都 芝3000 2人気 栗田勝 3:13.8
2 重賞京都盃 京都 芝1800 栗田勝
2 オープン 阪神 芝1800 栗田勝
1 八大競走東京優駿(日本ダービー) 東京 芝2400 1人気 栗田勝 2:28.8
2 オープン 東京 芝1800 栗田勝
1 八大競走皐月賞 東京 芝2000 1人気 栗田勝 2:04.1
1 スプリングステークス 東京 芝1800 栗田勝
1 オープン 京都 芝1600 栗田勝
1 3歳中距離特別 阪神 芝1600 栗田勝
1 オープン 阪神 芝1400 栗田勝
1 新馬 京都 芝1200 1人気 栗田勝

血統

金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ
シンザンの血統表(左から親・祖父母)
ヒンドスタンHindostanボワルセルBois Roussel
ソニビアSonibai
ハヤノボリHayanoboriハヤタケHayatake

引退後・牧場での映像

ゴール板の先の時間
STORY

旅程 — この馬の物語

戦後初のクラシック三冠。のちに天皇賞・有馬記念も制し『五冠馬』。35歳まで生き、長寿記録を打ち立てた。

松風という名の平凡

1961年4月2日、北海道浦河町の松橋吉松牧場に鹿毛の牡が生まれた。血統名は松風といった。 生後二か月、京都の調教師・武田文吾がこの牧場を訪ねている。荻伏牧場の斎藤卯助に紹介されての訪問だった。武田は幼駒の骨量の豊かさに目を留め、母の母の父にあたるトウルヌソルの特徴が濃く出ていると見た。三代母のバッカナムビューチーには、武田自身が騎手時代に乗っている。牧場は350万円の値をつけ、交渉のすえ320万円で話がついた。数か月後、名古屋で運送会社を営む橋元幸吉が牧場を訪れ、この一頭に一目で惚れて馬主になる。 名づけを頼まれた武田は、孫の名から一字を借りた。孫の名は栗田伸一。武田の娘・英子と、武田厩舎の主戦騎手・栗田勝のあいだに生まれた男の子である。「伸」に「山」を継いで、伸山。山のほうは、入厩したときから山のようにどっしり落ち着いていたからだという。読みは、シンザン。 もっとも、まわりの目は熱くなかった。牧場の人間も、のちに担当厩務員となる中尾謙太郎も、第一印象は揃って「平凡」だったと語っている。放牧地で集団を走らせれば、いつも後ろのほうにいた。速くはない。そのかわり、決してばてなかった。 1962年11月、京都競馬場の武田厩舎に入る。デビューは翌1963年の11月3日を予定していたが、その新馬戦に関東の評判馬ウメノチカラが出ると分かって一週間ずらした。11月10日、京都の芝1200メートル。三コーナーで先頭に立ち、4馬身差で勝った。 避けたその馬の名は、このあと何度も出てくる。

髭も剃れる鉈

年内にもう二つ勝ち、明けて1964年1月の京都でも勝って四連勝。ただし相手は選ばれていた。当時の関西の三歳王者決定戦にあたる阪神3歳ステークスにも、同じ厩舎から二頭が出るという理由で回避している。一流とは、まだ当たっていない。 物差しが要る。三月末、東京のスプリングステークス。本来は中山の競走だが、この年は中山が改修中で東京に移されていた。調教の動きが良くなく、14頭のうち6番人気。武田は東京へ出向きもしなかった。ふたを開けると、デビューを一週遅らせてまで避けたウメノチカラも、弥生賞を勝ったトキノパレードも、まとめて後ろに置いた。 4月19日、皐月賞。この年は皐月賞も東京で行われ、当時としては同競走史上最多の24頭立てだった。1番人気。先行して直線の入口で先頭に立ち、追ってきたアスカに4分の3馬身差をつける。デビューから六連勝で、一つ目の冠を獲った。 レースのあと、武田は東京の調教師・中村広の自宅で、競馬記者にこう漏らしている。ひょっとするとクラシック三冠を取れるかもしれない、と。 武田には、自分が育てた二冠馬コダマがいた。そのコダマと並べて、この馬をこう評した。「コダマはカミソリ、シンザンはナタの切れ味。ただしシンザンのナタは髭も剃れるナタである」[^1]

出典:日本語版ウィキペディア「シンザン」(吉永みち子『シンザン物語』を出典とする武田文吾の評)、https://ja.wikipedia.org/wiki/シンザン 、閲覧日:2026年8月3日。

七戦目の二着

ダービーまで六週間あった。武田は、調教だけでは仕上がらないと考え、その間にオープンを一つ使うと決める。栗田は反対した。この馬の力を思えば要らない、というのが言い分である。押し切られた栗田は、レース直前の調教で師の指示より遅く走らせた。師弟のあいだに、最初のひびが入る。 5月16日、東京の1800メートル。皐月賞のときより10キロ重い馬体で出て、逃げたヤマニンシロをクビ差だけ捕らえきれなかった。七戦目にして、初めて先頭でゴールしない日が来た。 5月31日、東京優駿。1番人気。速い流れを中団で見て、直線で外へ持ち出す。そこへ内からウメノチカラが伸びてきて、いったん前に出た。栗田の鞭が入ると、シンザンは差し返した。 勝ちタイムは2分28秒8。前年にメイズイが出したレコードに0秒1およばない、当時の史上二位である。この時計は、のちの三冠馬ミスターシービーシンボリルドルフも上回れなかった。ウメノチカラに乗っていた伊藤竹男は、理想的なレースをして負けたのだからこの馬は本当に強い、と語っている。 二つ目の冠だった。

氷柱の夏

菊花賞へ向けて、武田は北海道への避暑に出さなかった。京都の暑さに慣れた馬を涼しい土地へ送り、また残暑の京都へ戻す。その往復のほうが危ないと踏んだのである。 ところがその夏は四十年ぶりの猛暑になった。7月下旬、シンザンは重い夏負けにかかる。汗をまったくかかなくなり、体温が上がった。厩舎は扇風機を回し、馬房に氷柱を吊るした。氷は一日に六十貫、ひと夏で二十万円かかったという。体温がもとに戻ったのは、8月の下旬だった。 10月に入るまで本格的な調教はできない。武田は、レースを使いながら鍛える方針に切り替えた。10月10日、阪神のオープンでイチミカドの二着。11月1日の京都盃では、バリモスニセイの二着。二冠馬が続けて二度、負けた。 11月に入ってようやく体が戻る。菊花賞直前の追い切りでは、稽古でよく動く僚馬オンワードセカンドを相手に、自分のほうが長い距離を走って先に上がった。それでもファンの不安は消えなかった。菊花賞の1番人気はウメノチカラで、シンザンは2番人気。二冠を勝った馬が菊花賞で1番人気に推されなかったのは、これが初めてだった。

淀の坂を二度

1964年11月15日、京都。 逃げたのはカネケヤキだった。シンザンと同じ年に生まれた牝馬で、この春に桜花賞と優駿牝馬を勝っている。牡の二冠馬と牝の二冠馬が、同じ日に三つ目を懸けて並んだ。日本の菊花賞でそういう顔ぶれが揃ったのは、あとにも先にもこの一度きりである。 カネケヤキは、行った。後続との差が二十馬身を超えても、まだ行った。人気を落としていた牝馬が、淀の芝をひとりで走っていた。 栗田は動かない。武田から、早く追うなと言われていた。 菊花賞は、淀の坂を二度越える。一度目を越えても、二度目にかかっても、シンザンはまだ後ろにいた。実況していた小坂巖のマイクから、こんな声が出た。「シンザン、どうした。三冠はもうだめだ」[^1] それから、栗田は追い出した。 前ではウメノチカラが先頭に立っている。デビューを一週遅らせてまで避けた馬。皐月賞で後ろに置いた馬。ダービーの直線で、いったん自分の前に出た馬。最後の一冠を、その馬が獲りにいっていた。 残り二百メートル。シンザンが、ウメノチカラを抜いた。 セントライトが三つを揃えてから、二十三年が過ぎていた。戦後の日本競馬に、初めて三冠馬が出た。

出典:日本語版ウィキペディア「シンザン」(『黄金の馬シンザン』『シンザン物語』を出典とする実況の文言)、https://ja.wikipedia.org/wiki/シンザン 、閲覧日:2026年8月3日。

六十三キロ

明けて1965年。当初は春の天皇賞を目標にしていたが、蹄が炎症を起こして食欲が落ち、腰痛も出た。武田は回避を決める。 オープンを二つ使い、6月27日の宝塚記念へ。出走馬を決めるファン投票では一位だった。不良馬場を不安がる声もあったが、終始好位で運び、直線で先行馬をまとめて交わす。追い込んできたのはバリモスニセイ。前の秋、京都盃で先着を許した相手である。今度は、前に行かせなかった。 秋の予定はこうだった。阪神のオープンを使い、関東へ輸送してもう一つオープンを挟み、天皇賞へ。ところが阪神を勝った直後、東京・中山・阪神で馬インフルエンザが広がり、競走馬の移動が禁じられる。解除を待つあいだに、使うはずだったオープンは終わってしまった。 残っていたのは目黒記念だった。2500メートルのハンデキャップで、斤量を軽くする手立てがない。武田が最初から候補から外していた競走である。11月3日、シンザンは63キロを背負って出た。四コーナーで先頭に立ち、そのまま押し切った。 11月23日、天皇賞。当時の天皇賞は勝ち抜け制で、春と秋の両方を勝つことはできない。距離は3200メートル。目黒記念で負かしたミハルカスが、加賀武見の手綱で後続を三十馬身以上引き離す大逃げを打った。シンザンは直線でこれを捉え、先頭でゴールした。 単勝の支持率は78.3パーセント、配当は100円の元返し。当てても、増えない。四つ目の冠だった。 表彰式で、栗田は泣いている。この馬で大レースをいくつも勝ってきて、天皇賞だけは初めてだった。

消えた

シンザンは、中山を走ったことがなかった。皐月賞が東京で行われた世代である。武田は、有馬記念の前週に中山でオープンを一つ使ってコースを覚えさせ、そのまま連闘で本番へ向かうと決めた。 栗田は、また反対した。今度は押し切られただけでは済まない。12月18日のオープンに乗ったのは、見習騎手だった武田の長男・博である。当時の見習騎手は斤量が軽くなるため、一線級の馬がオープンに出るときに主戦と替わるのは珍しくなかった。結果はクリデイの二着。関西では名を知られていない馬だった。 栗田は深酒をして倒れ、病院へ運ばれる。翌日の騎乗をすっぽかし、騎乗停止処分を受けた。武田は、信頼できない男をシンザンに乗せるわけにはいかない、と言って栗田を降ろした。 陣営は中山を知る関東の騎手を探した。三年続けてリーディングだった加賀武見に話が行く。加賀は断っている。シンザンに乗るより、シンザンを倒したい。そう言って、小西喜蔵厩舎のミハルカスの鞍上に収まった。ほかの騎手とも折り合わず、シンザンの手綱は同じ武田厩舎の松本善登に渡る。松本は前の年、オンワードセカンドでダービーと菊花賞を走り、二度ともシンザンの三着に入った男だった。 12月26日、中山。曇り、芝は稍重。八頭立てで、単勝は1.1倍だった。 四コーナー。逃げるミハルカスが、大きく外へ持ち出された。加賀は、直線も中途半端ではない外へ出ようと決めていた。内の馬場は荒れている。シンザンがそこを通れば、末脚は幾らか鈍るはずだ。そういう読みだった。 松本は、内へ入らなかった。ミハルカスのさらに外、外ラチのすぐ内側まで持ち出した。 その瞬間、テレビカメラの画角から一頭が消えた。スタンドからも見えない。ラチ沿いの溝に落ちたのではないかと客がざわめき、実況は「消えた」と言った。加賀によれば、ミハルカスの外にはまだ二頭ぶんほどの幅が残っていて、落ちようがなかったという。 次にカメラが捉えたとき、シンザンは外ラチ沿いから中山の坂を上り、先頭でゴール板を過ぎていた。二着のミハルカスとの差は、1と4分の3馬身。 皐月賞、東京優駿、菊花賞、天皇賞、有馬記念。日本の競馬に、五冠馬という言葉が初めて生まれた。 レースのあと、松本はこう言った。「シンザンが外を回れと言った」[^1]

出典:日本語版ウィキペディア「シンザン」(『サラブレ』2007年9月号 p.28 を出典とする松本善登の発言)、https://ja.wikipedia.org/wiki/シンザン 、閲覧日:2026年8月3日。

シンザンを超えろ

勝った側の調教師のところへ、負けた側の調教師が歩いてきた。小西喜蔵。二十四年前、セントライトに乗って日本で最初の三冠を勝った騎手である。小西は武田にこう言った。「シンザンを超える馬は当分出てこないだろう」[^1] 1966年1月、東京と京都で引退式が行われた。海外へ出せという声もあったが、武田は端から考えていない。三冠を勝ったのと同じ秋にアメリカへ渡ったリユウフオーレルが惨敗し、故障して引退したのを見ていたからである。 2月25日、貨車で日高幌別駅に着き、浦河の谷川牧場まで自分の脚で歩いた。町は歓迎会を開き、中心街では武田と栗田が加わってパレードをした。 種牡馬としての船出は楽ではない。当時は輸入種牡馬の全盛で、内国産は軽んじられていた。牧場代表の谷川弘一郎はシンジケートを組もうとしたが、まとまらなかった。種付料を20万円に置き、受胎を確認してからの支払いでよいと譲って、初年度に39頭の牝馬を集める。相手は近隣の牧場や、身内と知人の牧場がほとんどだったという。 それでも産駒は勝った。1969年から1992年まで、24年続けて産駒が勝ち鞍を挙げている。1972年に種牡馬ランキングの17位へ入り、1978年には5位まで上がった。1981年、谷川牧場で生まれたミナガワマンナが菊花賞を勝つ。続いてミホシンザンが皐月賞と菊花賞を制した。輸入種牡馬に占められていた場所に、内国産の道が一本通ったことになる。 そのあいだ、日本の生産界は一つの合言葉を掲げ続けていた。「シンザンを超えろ」。冬の牧場で後ろ脚だけで立ち上がったシンザンの写真に、その言葉を添えたポスターまで作られた。標語はおよそ二十年続く。終わらせたのはシンボリルドルフだった。1984年、無敗で三冠を勝った馬を見て、武田は、やっとシンザンを超える馬が出てきた、と言っている。シンザンが顕彰馬に選ばれたのも、同じ1984年である。 ただし、全員が同意したわけではない。倒そうとして倒せなかった加賀は、2000年になっても、三冠馬をすべて見てきたがシンザンを超えた馬はいない、と語っている。

出典:日本語版ウィキペディア「小西喜蔵」、https://ja.wikipedia.org/wiki/小西喜蔵 、閲覧日:2026年8月3日。

浦河の三十五年

競馬評論家の大川慶次郎は、この馬を一度も本命に推さなかった。スプリングステークスの前に初めて調教で見て、背中がへこんで映る体型をひどく見劣ると感じたのが始まりである。三冠を勝ったあとも、次は何かに負けるだろうと思い続け、予想では毎回「負かすとすれば」の一頭を探した。のちに大川は書いている。あの馬には体型に勝るものが内在していた、間違っていたのはそれに気づかなかった自分のほうだ、と。牧場の人間が最初に平凡と見た馬は、最後まで、見る側の目のほうを試していた。 栗田勝は、五つ目の冠に乗れなかった。引退式の鞍上も松本と武田博で、栗田ではない。それでも1968年10月13日、京都競馬場にこの馬の銅像が建つ。シンザンは除幕式のゲストに呼ばれ、三年ぶりに武田厩舎へ帰ってきた。その滞在中、朝の乗り運動に跨がったのは栗田だった。栗田は1971年に鞍を降りて調教師になり、1980年1月、47歳で急逝する。減量苦を紛らわせるために始めた酒が命を縮めたと言われた。その前年、彼の厩舎から一人の新人騎手がデビューし、関西の新人賞を獲っている。栗田伸一。この馬に一字を貸した、あの男の子だった。 シンザンは浦河で三十年を過ごした。晩年は右目の光を失い、歯もすべて抜けた。1995年11月19日、サラブレッドの日本最長寿記録を更新する。それまでその記録を持っていたのはカネケヤキだった。同じ春に生まれ、あの淀で二十馬身の逃げを打った牝馬である。三週間前に、三十四歳で息を引き取っていた。三十一年前に同じレースを走った二頭は、最後には生きた長さを競っていたことになる。1996年7月13日の未明、シンザンは老衰で死んだ。三十五歳と百二日。遺体は生まれた町の土に埋められ、その上に像が立った。標語になり、目標になり、二十年のあいだ日本中の厩舎でその名を呼ばれ続けた馬は、そのあいだずっと、浦河の草を食みながら歳をとっていた。

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