名馬の記憶を、
再生する。

年表ICHINEN-ISSO — 2400m

BOKUJŌ-CHŌ — HOKKAIDO

牧場帖

一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。
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名馬録

この世代(生まれ年)

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スピードシンボリ

通算成績43戦17勝

生年月日 1963.05.03(昭和38年)毛色 黒鹿毛

全成績

主要戦績(抜粋)・新しい順
スピードシンボリの成績一覧
年月日着順レースコース人気騎手タイム映像
1 有馬記念 中山 芝2500 野平祐二 2:35.7
7 ハリウッドターフクラブ賞 京都 芝2400 野平祐二 2:39.7
2 毎日王冠 中山 芝2000 野平祐二 2:03.8
3 日本経済賞 中山 芝2500 野平祐二 2:42.0
1 宝塚記念 阪神 芝2200 野平祐二 2:13.3R
2 アルゼンチンJCC 東京 芝2500 野平祐二 2:34.8
1 アメリカJCC 中山 芝2500 野平祐二 2:34.9R
1 有馬記念 中山 芝2500 野平祐二 2:35.1
着外 凱旋門賞 ロンシャン 芝2400 野平祐二
10 ドーヴィル大賞典 ドーヴィル 芝2600 野平祐二
5 キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス アスコット 芝12F 野平祐二
2 アルゼンチンJCC 東京 芝2600 野平祐二 2:43.7
1 ダイヤモンドS 東京 芝3200 野平祐二 3:36.4
1 目黒記念(春) 東京 ダ2300 野平祐二 2:23.5R
3 アメリカJCC 中山 芝2500 野平祐二 2:39.0
3 有馬記念 中山 芝2500 野平祐二 2:46.6
1 オープン 東京 芝2000 野平祐二 2:03.6
1 アルゼンチンJCC 東京 芝3200 野平祐二 3:23.6
1 オープン 東京 芝1800 野平祐二 1:49.7
8 中山記念 中山 芝1800 野平祐二 1:53.1
6 ダイヤモンドS 中山 芝3200 野平祐二 3:27.9
5 アメリカJCC 中山 芝2500 野平祐二 0.9
4 有馬記念 中山 芝2500 野平祐二 2:40.8
5 ワシントンDC国際 ローレル 芝12F 野平祐二
1 日本経済賞 中山 芝2500 野平祐二 2:38.1
1 八大競走天皇賞(春) 京都 芝3200 野平祐二 3:24.2
1 目黒記念(春) 東京 芝2500 野平祐二 2:37.4
1 アメリカJCC 中山 芝2500 野平祐二 2:37.3
3 有馬記念 中山 芝2500 野平祐二 2:37.1
2 八大競走菊花賞 京都 芝3000 野平祐二 3:08.5
3 セントライト記念 東京 芝2400 野平祐二 2:29.2
2 京王杯オータムH 東京 芝1800 野平祐二 1:53.4
6 日本短波賞 東京 芝1800 津田昭 1:53.0
8 八大競走東京優駿 東京 芝2400 津田昭 2:32.6
13 NHK杯 東京 芝2000 野平祐二 2:07.2
21 八大競走皐月賞 中山 芝2000 津田昭 2:10.9
1 京成杯 中山 芝1600 津田昭 1:40.2
6 弥生賞 東京 芝1600 津田昭 1:40.4
1 3歳特別 中山 芝1600 野平祐二 1:39.8
1 50万下 中山 芝1200 野平祐二 1:15.2
1 未勝利 東京 芝1200 津田昭 1:14.1
4 新馬 中山 芝1200 津田昭 1:15.2
4 新馬 中山 芝1200 野平祐二 1:15.7

血統

金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ
スピードシンボリの血統表(左から親・祖父母・曽祖父母)
ロイヤルチャレンヂャーRoyal ChargerNearco
Sun Princess
SkerweatherSingapore
Nash Light
スイートインライジングライトHyperion
Bread Card
フィーナーOrthodox
Sempronia
STORY

旅程 — この馬の物語

1963年生まれの黒鹿毛の牡馬。父ロイヤルチャレンヂャー、母スイートイン。

売れ残った、細い仔

1963年5月3日、北海道新冠のシンボリ牧場新冠支場で、黒鹿毛の牡が生まれた。父はアイルランド産のロイヤルチャレンヂャー。母スイートインは、イギリスから腹に入ったまま渡ってきた持込馬である。スイートインはハイペリオンの2×3という強い近親交配で生まれていたので、配合相手には血の遠い父が選ばれていた。 幼駒は脚ばかりが長く、背は高いのに胸が薄かった。牧場を訪れた買い手とは値が折り合わず、売れずに残る。買い手のつかなかったその一頭を、牧場主の和田共弘がそのまま自分の持ち馬にした。和田はのちに「からだのこなしや、スプリントの強さは非常に目に付いた」[^1]と振り返っている。 和田は、馬を一つの土地で育てなかった。北海道で生まれた仔を千葉へ移し、千葉から岩手へ移す。環境を変えながら鍛える「三元育成」と呼ばれたやり方で、最初に育てられたのがこの馬だった。のちにメジロアサマやシンボリルドルフにも施される手法の、試作第一号である。 名は、スピードシンボリ。走る前から速さを名乗らされた馬は、競走年齢に達すると中山の野平富久厩舎に入った。厩舎の主は開業してまだ間もない調教師で、その父も弟も、同じ中山で馬に関わっていた。

出典:白井透編『日本の名馬』(サラブレッド血統センター、1971年)p.375。ウィキペディア日本語版「スピードシンボリ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/スピードシンボリ 経由で確認、閲覧日:2026年8月3日。

落第と、ハナ差

1965年10月3日、中山の芝1200メートル。鞍上は野平祐二。八頭立ての四着だった。二週間後の新馬も四着。三戦目、津田昭に乗り替わった東京で初めて勝った。暮れの中山で二つ続けて勝ち、当時の数えで三歳(いまの二歳)の秋を三連勝で締める。 明けて1966年。弥生賞六着のあと、顔ぶれが手薄だからと急に決めて出た京成杯を勝った。重賞初制覇である。クラシック候補の一頭に数えられ、そこから体調を崩した。 皐月賞は二十三頭立ての二十一着。ダービートライアルのNHK杯は十九頭中十三着。二十八頭が走った東京優駿では二十七番人気まで人気を落とし、後方から追い込んで八着だった。使うたびに馬体は削れていく。ダービー当日の馬体重は、京成杯を勝った日から十四キロ減っていた。野平は後年、ダービーにこだわって無理に使わせたことが失敗だったと書いている。 夏を休ませ、秋。初めて古馬に混じった京王杯オータムハンデで二着に入る。この一戦から鞍上は野平で固定された。セントライト記念三着を経て、初めて西へ下って菊花賞へ向かう。十三番人気だった。 京都の直線で外から追い込み、先に抜け出していた一番人気ナスノコトブキと馬体を併せた。写真判定は十数分に及ぶ。結果はハナ差の二着。冠は一つも獲れなかった。それでも暮れの有馬記念で三着に食い込み、この年のクラシック世代では最先着だった。

兄の厩舎で勝ち、父の厩舎へ

1967年、年明けのアメリカジョッキークラブカップを二馬身、三月の目黒記念(春)を半馬身。連勝して四月二十九日、京都の三千二百メートルに立った。 単勝1.8倍の一番人気。内埒沿いで粘るカブトシローを、ゴール前でアタマ差だけ交わした。天皇賞(春)。八大競走を、初めて勝った。続く日本経済賞は逃げ馬と終始並んで運び、直線で突き放して四連勝とする。 この頃、和田は野平に妙な注文をつけていた。最初から最後まで前々で行ってみないか、外国の競馬ではみんな飛ばしていくだろう、と。国内での勝ち方ではなく、その先を見ていた注文である。 そして天皇賞のあと、この馬は厩舎を移った。それまで管理していた野平富久は、調教師・野平省三の長男である。移った先は、その父・省三の厩舎だった。鞍上の祐二は省三の次男、富久の弟にあたる。一頭の馬が、兄の手から父の手へ渡され、弟がその背に乗り続けたことになる。

ローレルの九頭立て

1967年11月11日、メリーランド州ローレル。ワシントンDCインターナショナルは九頭立てだった。六連勝中のアメリカ二冠馬ダマスカス、アイリッシュダービーを勝ったリボッコ。そのなかでスピードシンボリの単勝は二十一倍、九頭のうち最も人気がなかった。 和田の注文どおり、野平は二番手につけた。千メートルを過ぎたあたりでフォートマーシーに、続いてダマスカスに交わされ、直線で失速する。勝ったフォートマーシーから八馬身四分の一差の五着。 この着順は、しかし日本馬がこの競走に残した最良の記録である。1962年のタカマガハラから1980年のハシクランツまで、日本から延べ八頭が九回このゲートに入ったが、着順でも着差でもこの日を上回った馬はいない。ほかの馬は二十馬身以内にすら止まっていなかった。 それでも野平自身は打ちのめされていた。1959年のオーストラリア遠征で掴んだ、海外の騎手とも互角にやれるという自信が、この一戦で崩れる。外国の馬の強さの理由を知りたければ、こちらから足を運ぶしかない。野平と和田はそう考えるようになった。 代償は翌年に来た。1968年の春は重賞を三つ使ってすべて着外。遠征の疲れが抜けないと見られ、ピークは過ぎたと書かれた。九月に戻ってオープン二つとアルゼンチンジョッキークラブカップを三連勝したが、暮れの有馬記念は不良馬場に脚を取られて三着に終わった。

アスコット、ドーヴィル、ロンシャン

1969年。年明けのアメリカジョッキークラブカップは三着に敗れたが、続く目黒記念(春)とダイヤモンドステークスを連勝し、五月のアルゼンチンジョッキークラブカップもハナ差の二着に粘った。三戦とも渋った馬場である。そこに成長を見た和田は、夏から秋にかけての欧州遠征を決めた。 招待で行った二年前のアメリカとは違い、今度は自分から行く遠征だった。渡航も滞在も、費用のほとんどを和田が負担する。ホテルニューオータニで開いた会見で、和田はこう言っている。「毎年、巨額の金を使ってサラブレッドの種馬を輸入しているのに、日本だけで競馬をやっているだけでは残念だ」[^1] 馬はまずイギリスへ渡り、ニューマーケットのジョン・ウィンター厩舎に入った。七月のキングジョージ六世&クイーンエリザベスステークスの前に一度使う予定でいたが、当年イギリスで流行していた流感にかかって調整が狂い、ぶっつけで本番へ向かうことになる。レースでは二番手から押し出されるように先頭に立ち、その直後に後続へ呑まれた。牝馬パークトップから八馬身四分の三差の五着。 フランスへ移り、八月のドーヴィル大賞典は逃げて十着。そして十月五日、ロンシャン。二十四頭立ての凱旋門賞で、この馬は生涯で初めて後方待機を選んだ。直線で十頭ほどを抜いている。ただし当時は十一着以下の公式記録が残らず、正確な着順はいまも分からない。勝ったのはレヴモスだった。 日本の馬がキングジョージと凱旋門賞のゲートに入ったのは、これが最初である。野平はこの遠征のあと、日本には何が足りないのか、強い馬とはどういうことか、と自分に問い続けたと書いている。

出典:白井透編『日本の名馬』(サラブレッド血統センター、1971年)pp.388-389。ウィキペディア日本語版「スピードシンボリ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/スピードシンボリ 経由で確認、閲覧日:2026年8月3日。

四度目の中山

帰国したスピードシンボリは、目に見えて衰えていた。有馬記念に出す予定だった陣営の中で、一度は引退が検討される。ところが放牧に出された先で馬は精気を取り戻し、現役続行が決まった。 十二月二十一日、中山。遠征疲れを危ぶまれて六番人気だった。道中は中団の後ろ。三コーナーから四コーナーにかけて前へ取りつき、直線で当年の菊花賞馬アカネテンリュウと並ぶ。ハナ差、先に出た。 有馬記念に出るのは四年続けて四度目である。1966年に三着、1967年に四着、1968年に三着。三度届かなかったあとの、一度だった。 この一戦で引退と見られていたが、レース後の会見で和田は現役続行を表明する。中央競馬会が国際招待競走の開催を計画しており、そこへ出すつもりだった。だがその競走は、当年決まった競走馬の輸入自由化に生産者から反発が出たことへの配慮で、開催が見送られる。目的地を失った現役続行だけが残った。

八歳の春と、白い牝馬の噂

1970年1月、四年連続の出走となったアメリカジョッキークラブカップを日本レコードで勝った。当時の数えで八歳、いまの表記なら七歳である。齢は、少なくとも時計には出ていなかった。 五月のアルゼンチンジョッキークラブカップはハナ差の二着。そして五月三十一日、阪神。春のドリームレースと呼ばれた宝塚記念を、一番人気に応えてレコードで制した。二着ホウウンに三馬身半。 そこからが長かった。六月の日本経済賞は三着。休養を挟んだ秋初戦の毎日王冠は二着。不良馬場のハリウッドターフクラブ賞は七着。勝てるはずの相手に先着を許し続け、また年齢の限界が語られはじめた。 その秋、おかしな噂がマスコミを賑わせた。スピードシンボリが二つ下の芦毛の牝馬ハクセツに恋をしている、というのだ。毎日王冠のあと、野平がハクセツの馬主だった三代目中村勝五郎に、返し馬でハクセツばかり気にしていたと伝えたのが元だった。中村は、日本一のシンボリならもっといい馬に惚れたらいいじゃないか、と冷やかしたという。 陣営は、目標を一つに絞った。有馬記念。出れば、史上初の五年連続出走になる。

十二月二十日

中山、十一頭。一番人気は前の年にハナ差で退けたアカネテンリュウ。二番人気は、この秋の天皇賞を勝ったばかりのメジロアサマ。スピードシンボリは三番人気だった。 野平には、決めていたことがある。欧州から帰って以来、この馬は力んで走るようになった。前で運ぶより、後ろから差す。引退を飾るならその形がいい。そう構想して、ゲートに入った。 発走。馬は後方に控えた。向正面でも動かない。 三コーナー。ここから押し上げる、という段になって、野平の目に馬場の内側が入る。何度も走られて荒れ、他の馬が避けて通っていく帯のような一角だった。大外を回るより、内を突いたほうがいい。とっさに鞭が入る。 一気だった。控えていた馬が先団に取りつき、直線の入り口で、先頭を行くアローエクスプレスを交わして前に出る。 そこから、荒れた地面が脚を捕まえた。伸びが鈍る。後ろからアカネテンリュウとダテテンリュウが追い上げてくる。 それでも、首だけ残った。 七年半余り前に新冠で売れ残った細い仔が、この日、有馬記念を連覇した最初の馬になった。当時の数えで八歳の馬が八大競走を勝ったのも、これが最初だった。晩年のこの馬を、人は老雄と呼んだ。

母の父として

1971年からシンボリ牧場本場で種牡馬になり、1977年、近くに開港した成田空港の騒音を避けて北海道の門別支場へ移った。産駒で重賞を勝ったのはピュアーシンボリ一頭きり、後継種牡馬も出ていない。名を継いだのは、娘のほうだった。スイートルナという牝馬がいる。その相手に選ばれたのが、和田がメジロ牧場の北野豊吉と共同で日本へ入れた種牡馬パーソロンだった。二頭の間に生まれた牡は、1984年に皐月賞・東京優駿・菊花賞を無敗で制する。シンボリルドルフである。和田が海の向こうから連れてきた血と、和田が売れ残りから育てた血が、一頭の中で重なった。 そのシンボリルドルフを預かっていたのが、野平祐二である。野平は1975年、父・省三の死で厩舎を継ぐため、まだ乗っていたかった鞍を降りて調教師になった。騎手として顕彰馬に乗って八大競走を勝ち、調教師としても顕彰馬を送り出したのは、保田隆芳に次いで二人目だった。ローレルとロンシャンで打ちのめされた男が持ち帰った問いは、十五年かけて、無敗の三冠馬という答えの形をとったことになる。 野平は、最後の有馬記念の自分の騎乗を失敗だったと書き残している。そのうえで、こう続けた。「それでも勝ってしまうところに、スピードシンボリのすごさがあるのでしょう。そういう馬に巡り会ったことは、本当に幸せでした」[^1] スピードシンボリは1989年5月31日に老衰で死に、火葬されて千葉のシンボリ牧場本場に墓が建てられた。二十六歳だった。翌年、顕彰馬に選ばれる。競馬の殿堂でその名の隣に置かれているのは、「時代の先駆者」という一語である。速さを名乗って生まれた馬が生涯でいちばん遠くまで運んだのは、自分の脚ではなく、日本の競馬のほうだった。

出典:野平祐二『馬の背で口笛ふいて』(NTT出版、1994年)pp.134-135。ウィキペディア日本語版「スピードシンボリ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/スピードシンボリ 経由で確認、閲覧日:2026年8月3日。

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