名馬の記憶を、
再生する。

年表ICHINEN-ISSO — 2400m

BOKUJŌ-CHŌ — HOKKAIDO

牧場帖

一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。
HORSES

名馬録

この世代(生まれ年)

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シンボリルドルフのイメージビジュアル
シンボリルドルフSymboli Rudolf
Symboli Rudolf

シンボリルドルフ

通算成績16戦13勝

獲得賞金84,477万円

生年 1981(昭和56年)毛色 鹿毛

全成績

主要戦績(抜粋)・新しい順
シンボリルドルフの成績一覧
年月日着順レースコース人気騎手タイム映像
6 GIサンルイレイステークス サンタアニタ 芝2400 岡部幸雄
1 GI有馬記念 中山 芝2500 1人気 岡部幸雄 2:33.1 映像
1 GIジャパンカップ 東京 芝2400 1人気 岡部幸雄 2:28.8 映像
2 GI天皇賞(秋) 東京 芝2000 岡部幸雄 映像
1 GI天皇賞(春) 京都 芝3200 1人気 岡部幸雄 3:20.4 映像
1 GII日経賞 中山 芝2500 岡部幸雄 映像
1 GI有馬記念 中山 芝2500 1人気 岡部幸雄 2:32.8 映像
3 GIジャパンカップ 東京 芝2400 岡部幸雄 映像
1 GI菊花賞 京都 芝3000 1人気 岡部幸雄 3:06.8 映像
1 GIIIセントライト記念 中山 芝2200 岡部幸雄 映像
1 GI東京優駿(日本ダービー) 東京 芝2400 1人気 岡部幸雄 2:29.3 映像
1 GI皐月賞 中山 芝2000 1人気 岡部幸雄 2:01.1 映像
1 GIII弥生賞 中山 芝2000 岡部幸雄 映像
1 オープン 東京 芝1600 岡部幸雄 1:39.9
1 いちょう特別 東京 芝1600 岡部幸雄
1 新馬 新潟 芝1000 岡部幸雄

血統

金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ
シンボリルドルフの血統表(左から親・祖父母・曽祖父母)
パーソロンPartholonマイリージャンMilesianマイバブーMy Babu
オートフレークOatflake
パレオPaleoファリスPharis
スイートルナSweet LunaスピードシンボリSpeed SymboliロイヤルチャレンヂャーRoyal Challenger
スイートインSweet In
ダンスタイムDance TimeパレスチンPalestine
サマリテーヌSamaritaine
STORY

旅程 — この馬の物語

無敗の三冠を含むGI七勝。『皇帝』の名のとおり、負ける姿が想像できない馬だった。

ルドルフ、と名づけられた

一九八一年三月十三日、北海道門別のシンボリ牧場に鹿毛の牡が生まれた。額に三日月の形をした白があり、左の後脚だけが一本、白い。生まれてから自分の脚で立つまで、二十分しかかからなかったという。牧場では母の名を取って「ルナ」と呼ばれていた。 父パーソロンは、牧場の主・和田共弘がアイルランドから輸入し、二度リーディングサイアーになった種牡馬である。母スイートルナの父スピードシンボリは、和田が持ち、日本の馬として初めて凱旋門賞のゲートに入った馬だった。買ってきた血と、自分で育てた血。その二本を掛け合わせる配合を、和田はすでに三度試している。 最初に生まれた全兄シンボリフレンドは、素質を持ちながら気性の激しさに阻まれ、京王杯スプリングハンデキャップの一勝で終わった。続く二頭も、同じ理由で大成しなかった。それでも和田は四度目に同じ配合を選ぶ。その四番仔が、この鹿毛だった。 名の前半は牧場の冠名、後半は神聖ローマ帝国のルドルフ一世から採った。和田は発音のしにくさを嫌って「シンボリドルフ」で登録しようとしたが、命名の担当者に説き伏せられて「ル」が残ったという。のちに競馬場が皇帝と呼ぶことになるその名は、危うく一音足りないまま世に出るところだった。

新潟の千メートル

デビューは一九八三年七月二十三日、新潟の芝千メートル。不良馬場だった。 本来この馬に乗るのは柴田政人のはずだった。兄と姉に騎乗していた縁で、調教師の野平祐二は柴田を予定し、北海道か秋の中山でのデビューを考えていた。ところが仕上がりが良すぎて、急に新潟が決まる。柴田は北海道に遠征していた。代わりに、夏の新潟を主戦場にしていた岡部幸雄へ手綱が回った。 野平は岡部に、千メートルだが千六百のつもりで乗ってほしいと頼んだ。そのうえで、ほかの馬に乗ってみてこの馬より強いと思う馬がいたら遠慮なく乗り換えていい、とも言い添えている。岡部が抱いた第一印象は、外車、それもとびきり上等の外車、というものだった。中団から運び、直線で抜け出して、二着に〇秒四の差をつけた。 秋にいちょう特別を勝つと、三戦目には関東の王者を決める朝日杯三歳ステークスを使わなかった。同じ日のジャパンカップに来る海外の関係者に、日本にもこんな馬がいると見せてやりたい——馬主の考えだった。その一般オープンも勝ち、三戦三勝で年を越す。 この厩舎には、まだ調教助手だった藤沢和雄がいた。入厩したその日に乗ってみろと言われ、内埒のカラスが飛び立った拍子に放り出されている。ルドルフから落ちたのはお前だけだ——野平はその話を何度も持ち出して笑ったという。 岡部はこのあと、この馬の十六戦すべてに乗る。一度も、誰にも譲らなかった。

一本、そして二本

一九八四年三月の弥生賞まで、岡部にはもう一頭、四連勝中のビゼンニシキがいた。どちらに乗るのかが話題になり、周囲の予想はビゼンニシキに傾いていた。岡部はルドルフを選ぶ。選ぶとか迷うとか、そういう次元の話ではなかった、と後年になって語っている。三か月ぶりで馬体が十八キロ増えていたルドルフは、一番人気のビゼンニシキを一馬身四分の一だけ抑えた。 皐月賞では、その馬体が二十二キロ減っていた。弥生賞で負った外傷で休み、遅れを取り戻すために強めに乗り込んだ反動である。二頭に人気が集中し、そろって単枠指定になった。ルドルフは三番手を進んで四コーナーで先頭に立ち、直線でビゼンニシキと馬体をぶつけ合いながら、また一馬身四分の一。中山の二千メートルを二分一秒一のレコードで駆けた。斜行を取られ、岡部には二日間の騎乗停止が科されている。表彰式で、彼は指を一本立てて写真に収まった。 東京優駿は回避馬が続き、二十一頭立てになった。単勝一・三倍。向正面で岡部の手綱が動いてもルドルフは反応せず、場内がどよめく。それでも直線に入ると自分からハミを取り、外から一気に伸びて、先を行くスズマッハたちを飲み込んだ。二分二十九秒三。ビゼンニシキは十四着だった。 レースのあと、岡部は言った。「ルドルフに競馬を教えてもらった」[^1]。仕掛けどころを馬のほうに教わった、という意味である。表彰式の指は、二本になった。

出典:中日スポーツ「「皇帝」シンボリルドルフ、岡部幸雄に「競馬を教えてもらった」と言わせた無敗2冠達成【日本ダービー】」2024年5月21日配信、https://www.chunichi.co.jp/article/901331 、閲覧日:2026年8月3日。

淀 ― 四分の三馬身

九月のセントライト記念を、ルドルフはレコードで圧勝した。二着に入ったオンワードカメルンの陣営は、レース後の取材で菊花賞の出走を取りやめると告げている。出走の権利を手にした馬が、勝ち馬を見ただけで降りた。 菊花賞の朝、京都の芝はわずかに湿っていた。三千メートル。日本のクラシックでいちばん長い距離である。 スタートを切っても、ルドルフは前へ行かない。馬群の中ほどに収まり、そのまま淀の坂を上り、下りた。三コーナーにさしかかったとき、前が壁になる。行き場がない。それでも岡部は待った。ルドルフも、待った。 直線を向いて、進路が開く。ルドルフが抜け出す。外から一頭、ゴールドウェイが並びかけてくる。差は詰まり、詰まりきらない。四分の三馬身。三分六秒八。 表彰式で、指は三本になった。皐月賞・東京優駿・菊花賞を無敗のまま勝った馬は、それまで日本の中央競馬に一頭もいない。グレード制が敷かれた最初の年のことだった。関東の厩舎から三冠馬が出たのも、いまのところこの馬が最後である。 岡部は後年、この日は鼻歌を歌いながら乗っていたと振り返っている。着差がそれまででいちばん小さかったことを問われると、何馬身も離すなとこの馬には最初から教え込んである、と答えた。

生涯ただ一度の四番人気

三千メートルを走った十四日後、ルドルフは中一週でジャパンカップのゲートに入った。下痢をしているという報道が続き、単勝は四番人気。この馬がそこまで評価を下げたのは、生涯でこの日だけである。 一番人気は前年の三冠馬ミスターシービーだった。三冠馬同士が同じレースを走るのは、日本の競馬で初めてのことになる。 その二頭の前で、十番人気のカツラギエースが後続を大きく離して逃げ、そのまま押し切った。日本の馬がジャパンカップを勝った、最初の一頭である。ルドルフは好位から追い、その日の上がりは生涯でいちばん速かったが、届かず三着。〇秒二差。デビューからの連勝は八で止まった。 一か月後の有馬記念では、三頭が単枠指定になった。有馬記念でその措置が取られたのも初めてだった。今度は岡部が、大逃げを打つカツラギエースの二番手をぴたりと追走する。直線で計ったように交わし、二馬身。二分三十二秒八のレコードだった。 一年のうちにクラシック三冠と有馬記念をすべて勝った馬は、中央競馬にそれまでいない。指は四本になった。

「絶対」がある

明けて一九八五年、初戦の日経賞は単勝が元返しになった。買っても増えない馬券である。逃げる馬がいないので押し出される形で先頭に立ち、そのまま四馬身。岡部は最後まで手綱を持ったままだった。 天皇賞(春)は、三度目のミスターシービーとの対戦になった。シービーが三コーナー手前から動いて先頭に立ち、ルドルフは初めて先輩三冠馬の背中を前に見る。それでも深追いはしない。直線の入り口でシービーの脚が上がると、あとは楽に差し返した。二着は同じパーソロン産駒のサクラガイセン。京都の三千二百メートルを三分二十秒四。指は五本になった。 崩れたのは、そのあとだった。宝塚記念に登録したものの、阪神での調教中、芝が剥がれてダートがむき出しになった箇所でアクシデントが起き、前日に左肩の跛行で出走を取り消す。夏に予定していたヨーロッパ遠征は白紙になり、七月には和田が引退の談話を出した。原因のはっきりしない筋肉痛が抜けなかった。牧場で施した治療がようやく効いて、引退の話は取り消される。 半年ぶりの実戦が、そのまま秋の天皇賞になった。当時は不利とされた東京二千メートルの大外、十七番枠。出遅れて最後方に置かれる。そこから向正面で一気に押し上げ、直線の入り口ではもう先頭にいた。暴走ではないかと場内がざわめいたという。競り寄る馬を一頭ずつ落とし、それでもゴールの手前で、十三番人気のギャロップダイナに外から差された。半馬身。 負けた直後にも、野平は言い方を変えなかった。競馬に絶対はないというが、この馬には絶対がある——そう言い切った。

出さなかった七本目

十一月のジャパンカップは重馬場になった。一年前に敗れた同じ舞台で、ルドルフは一番人気に応え、二分二十八秒八で駆け抜ける。ジャパンカップで一番人気の馬が勝ったのは、これが初めてだった。二着には船橋のロツキータイガーが入り、日本で調教された馬のワンツーもこれが初めてになる。表彰式で岡部は、六つ目を示した。 十二月の有馬記念を前に、野平は岡部へ、強い勝ち方をしろと言った。直線の半ばで鞭を二発。その年の皐月賞と菊花賞を勝ったミホシンザン以下を、四馬身突き放した。二分三十三秒一。 日本で調教された馬がGIを七つ勝ったのは、これが初めてである。有馬記念の連覇のほうは、母の父スピードシンボリ以来だった。祖父が十五年前に置いていった記録に、孫が並んだことになる。 その日、岡部は指を立てなかった。一本から六本まで、冠がひとつ増えるたびに数を足してきた男が、七つ目だけは何も掲げずにウイナーズサークルを出た。 この年、五戦して四勝。満票での年度代表馬は、史上三頭目だった。

サンタアニタ、三月

年が明けて、ルドルフは海を渡った。一九八六年三月二十九日、カリフォルニアのサンタアニタ競馬場。七頭立てのサンルイレイステークス、三番人気。 このコースの芝は、途中でダートコースを横切る。その地点で左前脚に繋靱帯炎が出た。六着。勝ったのはダハールという馬だった。日本ではその日のうちに、各局が故障を伝えている。 帰国後、海外への再挑戦も検討されたが、ルドルフが競馬場に戻ることはなかった。十二月七日、中山競馬場で引退式。背には「7」の数字と王冠を縫ったゼッケンがあった。 生涯で敗れたのは三度だけである。東京のジャパンカップ、東京の天皇賞、そしてサンタアニタ。三つとも、左回りのコースだった。

見せなかったもの

一九八七年、顕彰馬に選ばれた。門別のシンボリ牧場で種牡馬になり、最初の世代からトウカイテイオーが出る。皐月賞と東京優駿を無敗で勝ち、父と子で二代続けて無敗の二冠となった。一九九二年のジャパンカップは岡部が乗って勝ち、親子でこのレースを制している。全姉スイートコンコルドの血からは、四代あとに二〇一八年のマイルチャンピオンシップを勝つステルヴィオが出た。 和田共弘が輸入したパーソロンを父に持ち、和田が育てたスピードシンボリを母の父に持つ。ルドルフは、生産者としての和田の集大成だった。そのスピードシンボリを凱旋門賞まで連れていったのは、当時まだ騎手だった野平祐二である。十数年のち、その野平が調教師としてルドルフを預かった。だから和田は、この馬でもう一度ヨーロッパへ行くつもりでいた。遠征は三度計画され、二度は流れ、実現した一度が最後の一戦になった。 岡部は後年、この馬について「本気で走ったことはほとんどない」[^1]と言っている。だとすれば、七つの冠も、三つのレコードも、余力のうちで積まれたことになる。ファンが最後まで見られなかったのは、この馬が負ける姿ではない。全部を出し切った姿のほうだった。強さの証明であり、同時に、いちばん惜しまれたところでもある。 和田は一九九四年に、ルドルフは二〇一一年十月四日に世を去った。三十歳。その秋、オルフェーヴルが三冠を勝っている。 二〇二四年九月十六日、中山競馬場。セントライト記念の日に、岡部幸雄は誘導馬の背にいた。四十年前、同じ競馬場の同じレースで、彼はルドルフとともに淀への扉を開けている。今度は勝負服ではない。掲げる指もない。それでも本馬場へ向かう列の先頭を歩くのは、やはりこの人だった。

出典:JRA-VAN「シンボリルドルフ 本気で走らなかった七冠馬|名馬メモリアル」、https://jra-van.jp/fun/memorial/1981107017.html 、閲覧日:2026年8月3日。

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