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タイキシャトル
通算成績13戦11勝
生年 1994(平成6年)毛色 栗毛性 牡
全成績
主要戦績(抜粋)・新しい順| 年月日 | 着順 | レース | コース | 人気 | 騎手 | タイム | 映像 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 3 | GIスプリンターズステークス | 中山 芝1200 | 1人気 | 岡部幸雄 | 1:08.6 | 映像 | |
| 1 | GIマイルチャンピオンシップ | 京都 芝1600 | 1人気 | 岡部幸雄 | 1:33.3 | 映像 | |
| 1 | GIジャック・ル・マロワ賞 | ドーヴィル 芝1600 | 1人気 | 岡部幸雄 | 1:37.4 | 映像 | |
| 1 | GI安田記念 | 東京 芝1600 | 1人気 | 岡部幸雄 | 1:37.5 | 映像 | |
| 1 | GII京王杯スプリングカップ | 東京 芝1400 | 岡部幸雄 | 1:20.1 | 映像 | ||
| 1 | GIスプリンターズステークス | 中山 芝1200 | 1人気 | 岡部幸雄 | 1:07.8 | 映像 | |
| 1 | GIマイルチャンピオンシップ | 京都 芝1600 | 2人気 | 横山典弘 | 1:33.3 | 映像 | |
| 1 | GIIスワンステークス | 京都 芝1400 | 2人気 | 横山典弘 | 1:20.7 | 映像 | |
| 1 | GIIIユニコーンステークス | 東京 ダート1600 | 3人気 | 岡部幸雄 | 1:36.8 | 映像 | |
| 2 | OP菩提樹ステークス | 阪神 芝1400 | 岡部幸雄 | 1:20.9 | — | ||
| 1 | OP菖蒲ステークス | 東京 芝1600 | 岡部幸雄 | 1:36.5 | — | ||
| 1 | 4歳500万下 | 京都 ダート1200 | 1人気 | 岡部幸雄 | 1:12.2 | — | |
| 1 | 3歳未勝利 | 東京 ダート1600 | 1人気 | 岡部幸雄 | 1:39.0 | — |
血統
金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ| 父デヴィルズバッグDevil's Bag | ヘイローHalo | ヘイルトゥリーズンHail to Reason |
| コスマーCosmah | ||
| バラードBallade | ハーバガーHerbager | |
| ミススワプスコMiss Swapsco | ||
| 母ウェルシュマフィンWelsh Muffin | カーリアンCaerleon | ニジンスキーNijinsky |
| フォーシーアForeseer | ||
| マフィティスMuffitys | サッチThatch | |
| — |
引退後・牧場での映像
ゴール板の先の時間旅程 — この馬の物語
マイル戦線を国内外で圧倒し、仏ジャック・ル・マロワ賞も制覇。晩年は日高の牧場で穏やかに過ごした。
クラシックのない設計図
赤澤芳樹は馬主の息子だった。アメリカに留学していたころ、西海岸で乗っていた岡部幸雄と親しくなる。その縁が、のちに大樹ファームの有力馬を美浦の藤沢和雄厩舎へ運ぶ道になった。 赤澤はケンタッキーにビッグシンクファームを開き、アイルランドのキルデア州にも育成場を持っていた。生産も育成も、海の向こうに自前の場所がある。そういう馬主だった。 1994年3月23日、そのケンタッキーの牧場で栗毛の牡が生まれた。父デヴィルズバッグは九戦八勝。アメリカの最優秀二歳牡馬に選ばれながら、ケンタッキーダービーを前に故障して競走生活を終えた馬である。母ウェルシュマフィンは赤澤の所有馬としてアイルランドとアメリカを走ったマイラーで、その背には岡部が二度またがっている。三代母コントレイルの子孫からは、のちに阪神ジュベナイルフィリーズを勝つピースオブワールドも出た。 設計図は、生まれる前から引かれていた。当時の日本では外国産馬にクラシックの出走権がなく、天皇賞の門も閉じていた。ダービーも菊花賞も走れないのなら、走れる場所でいちばん強くなればいい。狙いはマイルのGI。その一点を前提にして、血が選ばれていた。 冠名のタイキに続く一語は、シャトル。往復する者。この馬はまだ一度もゲートに入らないうちに、アメリカで生まれ、一歳の年にアイルランドへ渡り、1996年7月に北海道の大樹ファームへ着いている。走り出す前の履歴に、すでに三つの国が並んでいた。
ゲート試験に二度落ちる
1997年2月5日、美浦の藤沢厩舎に入る。予定より半年近く遅れていた。前年の秋には入るはずが、脚部の負傷と蹄の化膿で先延ばしになったのである。 入厩してからも順調とはいかない。慎重すぎる性格が災いしてゲート試験に二度落ち、走らせるたびにソエ——若い馬の前脚に出る炎症——が悪化した。デビューは四月までずれ込む。 4月19日、東京のダート1600メートル。芝でなくダートを選んだのは、固まりきらない脚元に無理をさせないためだった。一番人気に応え、二着に四馬身の差をつけて勝つ。続く京都のダート戦も勝ち、初めて芝を踏んだ六月の菖蒲ステークスも勝った。三連勝。 四戦目でつまずいた。七月、阪神の菩提樹ステークス。初めての関西で、他馬より重い五十六キロを背負い、テンザンストームにクビ差で先着を許す。藤沢は動じなかった。ノーマークの馬に単騎で行かれて捉えきれなかっただけで、強い馬が負けるときの典型的な形だ、とのちに語っている。 この馬が敗れるのは、生涯で二度だけになる。そのうちの一度が、ここだった。
代打の秋
三か月の休養をはさんで秋。初戦に選んだのはダート1600メートルのユニコーンステークスだった。芝でもダートでもいい、とにかくマイルを、それも同世代限定の一戦を——藤沢の条件にたまたま合ったのが、このレースだったという。三番人気。楽に先行し、最後の三ハロン(六百メートル)を出走馬中最速の三十七秒九でまとめ、二着ワシントンカラーに二馬身半をつけた。重賞初制覇である。 続くスワンステークスとマイルチャンピオンシップでは、鞍上が替わる。岡部が同じ厩舎のシンコウキングに乗ることになっていたためだ。シンコウキングは気難しく、岡部でなければ御しきれないという厩舎の事情があった。代わりに手綱を取ったのが横山典弘である。 スワンステークスは三番手から抜け出し、追い込むスギノハヤカゼを四分の三馬身抑えた。 11月16日、京都のマイルチャンピオンシップ。十八頭立て。桜花賞馬キョウエイマーチが千メートルを五十六秒五で通過する激流をつくり、サイレンススズカとヒシアケボノがそれに続いた。前にいる馬から順に潰れていく流れである。タイキシャトルは四、五番手にいた。直線、ペースに巻き込まれた各馬が沈むなかで、横山の合図に即座に反応する。粘るキョウエイマーチを、あっさりと差し切った。 レースのあと、横山は岡部に憎まれ口をたたいた。こんなに強い馬に乗っていたなんて反則だ、と。岡部は、最初からお前が乗っていたらここまで強くはなっていない、と返したという。
調教師のいない大一番
12月14日、中山のスプリンターズステークス。手綱は岡部に戻った。大外の十六番枠から単勝1.9倍の一番人気に応え、いつものように好位につけ、直線の半ばで抜け出す。二着スギノハヤカゼに一馬身四分の三、勝ち時計は1分07秒8。芝1200からダート1600まで、距離も馬場も問わない馬になっていた。 この日、藤沢は日本にいなかった。香港でシンコウキングに付き添っていたのである。 「帰国してレースをビデオで見たら、『これはとんでもない馬だな』と思ったほど、すごい競馬でした」[^1] どんなにいいレースをしても「じょうずな競馬」と表現する調教師が、すごい、と言った。 年度代表馬の票は、エアグルーヴへ流れた。タイキシャトルに与えられたのは最優秀短距離馬の一つだけである。短距離を走る馬に、その年いちばんの称号はまだ回ってこなかった。
出典:Number Web「《追悼》タイキシャトルは日本競馬史上もっとも偉大なマイラーだった…クールな岡部幸雄が涙ながらに語った『ジャックルマロワ賞に勝てて、ほんとうに…』」(文・江面弘也)2022年8月20日配信、https://number.bunshun.jp/articles/-/854318 、閲覧日:2026年8月3日。
四本の釘
この馬の蹄は脆かった。水分を多く含み、割れやすい。厩舎のスタッフは常にその状態に気を配っていた。 1998年の春、放牧先の寒さで蹄に亀裂が入る。安田記念どころか、出走そのものが危ぶまれた。藤沢が頼ったのは装蹄師の志賀勝雄である。志賀は、通常より少ない四本の釘で蹄鉄を打つフォーポイントという技法を使い、蹄が伸びて回復するのを促した。 5月16日、京王杯スプリングカップ。休み明けで単勝1.5倍。好位から抜け出し、強く追われないまま二着オースミタイクーンに一馬身半をつけた。1分20秒1のレコードである。海外のGIを狙えるような馬は、休み明けだろうと国内のGII程度ならあれくらいの競馬をしてしまうものなのだと実感した——藤沢はそう話した。 この年の春から夏までを、四本の釘が繋いでいた。
不良の府中
6月14日、安田記念。大雨だった。馬場は不良。初めての不良馬場を不安視する声もあったが、単勝は1.3倍のままだった。 エイシンバーリンが逃げ、タイキシャトルは四番手あたりを追走する。四角から直線にかけて、荒れた内側を嫌った各馬が内へ外へと散った。岡部はその真ん中へ持ち出す。ゴールまで百メートルを切ったところで、先に抜け出していた香港のオリエンタルエクスプレスを捉え、二馬身半突き放した。先行しながら、最後の三ハロンは出走馬中最速だった。 レース後の岡部は淡々としていた。 「フランスのドーヴィルは馬場が悪いから、きょうのレースはいい予行練習になったと思います」[^1] 勝ったばかりのGIが、予行練習と呼ばれた。
出典:Number Web「《追悼》タイキシャトルは日本競馬史上もっとも偉大なマイラーだった…クールな岡部幸雄が涙ながらに語った『ジャックルマロワ賞に勝てて、ほんとうに…』」(文・江面弘也)2022年8月20日配信、https://number.bunshun.jp/articles/-/854318 、閲覧日:2026年8月3日。
行き先を決めた一本の電話
遠征先の候補は三つあった。イギリスのサセックスステークス、フランスのジャック・ル・マロワ賞、そして同じドーヴィルのモーリス・ド・ゲスト賞。藤沢の気持ちは、華やかなグロリアスグッドウッド開催のサセックスステークスに傾いていた。 異を唱えたのは、当時の大樹ファーム副社長ジョン・マルドゥーンである。グッドウッドはアップダウンが激しくて日本馬向きとは思えない、そこで乗り慣れていない日本の騎手も苦労するだろう、ドーヴィルは平坦だからこなせるはずだ——そういう意見だった。赤澤から遠征先を一任されていた藤沢は迷った。 決め手のひとつは、森秀行からの提案だった。シーキングザパールでフランス遠征を計画していた森が、輸送費を抑えるために同じ飛行機で運ばないかと持ちかけてきたのである。行き先はドーヴィル、ジャック・ル・マロワ賞に決まった。 7月21日に渡仏する。本番の約一か月前という時期に、もっと早く行って現地に慣らすべきではないかという声もあった。藤沢は動かない。日本で競馬を使うときと同じ調整をする、というのが方針だった。調教は馬なり中心のまま。世話になったトニー・クラウトの厩舎は、日陰で馬の往来が少ない馬房を用意してくれた。クラウトは、いつ見てものんびりしていて寝ていることも多く、もう少し強い調教をした方がいいのではないかと思った、と振り返っている。それでも藤沢の考えは変わらなかった。海外だからといって普段と違うことをする必要はない。 レースの一週間前、同じドーヴィルのモーリス・ド・ゲスト賞をシーキングザパールがレコードで勝った。日本調教馬による初の海外GI制覇である。その勢いもあって、タイキシャトルの単勝は1.3倍。一時は1.1倍まで沈んだ。強敵と見られていたインティカブが故障で回避したことも重なっている。まるで日本のレースに出たときのオッズだ、と藤沢は苦笑するしかなかった。
直線一六〇〇メートル
当日のタイキシャトルは、それまでにないほど入れ込んだ。装蹄をしていた志賀を蹴った。この気配が数時間で治まらなければ、出走取消の判断が下される可能性さえあったという。四本の釘で蹄を繋いだ男が、最後の最後にその後肢を受けている。 ドーヴィルの直線は千六百メートル。コーナーがない。曲がれという合図が一度も来ないまま、ゴールまでの全部が真っすぐに続く。どこで動くかは、騎手が自分の内側の時計だけで決めるしかない。四角を回ったら追う、という日本で覚えた手順は、ここでは使えなかった。 八頭立て。発表された馬場状態はボンスープルで、日本の基準でいえば稍重にあたる。 ゲートが開くと、ケープクロスが前に出た。その年のロッキンジステークスを勝っている馬である。タイキシャトルは二番手についた。ただ、前半は競馬に身が入っていない。物見をしながら走っていた。見たことのない景色に気を取られながら、それでも二番手の位置だけは動かない。 岡部は動かなかった。 半ばを過ぎても動かない。前のケープクロスに止まる気配はなく、外からはアマングメンが上がってくる。その夏のサセックスステークスを勝った馬だ。藤沢が行きたがっていたグッドウッドの一戦、その勝ち馬が、いま外にいる。 残り百メートル。そこで初めて、岡部は仕掛けた。 ひと押しでケープクロスは競り落とされた。物見をしていた馬が、合図ひとつで前に出る。あとはアマングメンとの短い叩き合いで、半馬身だけ、先にゴールが来た。 その夜、関係者が集まった席で岡部が挨拶に立った。 「ぼくの長年の夢の集大成ともいえるジャックルマロワ賞に勝てて……、ほんとうに……、ほんとうにありがとう」[^1] 言葉は途切れ途切れだったという。いつも冷静な騎手が涙を拭う姿が、テレビに映し出されていた。 翌日、イギリスの『レーシングポスト』紙は一面でこう伝えた。Japan 2、Europe 0。
出典:Number Web「《追悼》タイキシャトルは日本競馬史上もっとも偉大なマイラーだった…クールな岡部幸雄が涙ながらに語った『ジャックルマロワ賞に勝てて、ほんとうに…』」(文・江面弘也)2022年8月20日配信、https://number.bunshun.jp/articles/-/854318 、閲覧日:2026年8月3日。
五馬身と、最後の一行
ムーラン・ド・ロンシャン賞やブリーダーズカップ・マイルへ向かう案も出たが、検疫の問題などがあり、帰国してマイルチャンピオンシップへ進むことになった。 11月22日、京都。好位から直線に入るとすぐ先頭に立ち、あとは離すだけだった。二着ビッグサンデーに五馬身。連覇である。 強すぎた。有馬記念に出てほしいという声がファンからもマスコミからも上がり、ファン投票では八位に推された。藤沢は、有馬記念が東京の2400メートルなら使う、シャトルは頭がいいから中山の2500メートルでは一周目でゴールと勘違いしてしまう、と冗談とも本気ともつかない答えを返している。 本来はこの一戦で引退するはずだった。JRAからの要望で予定が変わり、スプリンターズステークスがラストランになる。 12月20日、中山。一番人気。馬体は京都で十四キロ増え、中山でさらに六キロ増えて五百三十キロになっていた。デビューの日より三十キロ以上重い。結果は三着だった。勝ったのはマイネルラヴ、二着はシーキングザパール。その夏、ドーヴィルで先にGIを勝っていた牝馬である。最後方から追い込んできて、ゴールの寸前でタイキシャトルを交わしていった。アタマ、クビ。時計の差はなかった。 藤沢はのちに、マイルチャンピオンシップの直後から明らかに走るのを嫌がるそぶりが出ていた、と振り返っている。レースのあとには耳を絞って反抗した。調整の段階から気持ちが走る方を向いておらず、自分で体を作ることを拒んだのだろう、と。もし言葉が話せたなら、もう引退させてくれと言っていたかもしれない——そこまで言った。 引退式では、デビューからの全成績がターフビジョンに映し出された。最後の一行、スプリンターズステークスの着順の欄には「1着」と出ていたという。そこだけが、事実と違っていた。
往復する者
外国産馬として、そして短距離を主戦場にした馬として、初めての年度代表馬に選ばれた。最優秀5歳以上牡馬と最優秀短距離馬も同じ年に受け、フランスのエルメス賞では最優秀古馬に選ばれている。翌1999年、顕彰馬。クラシックにも天皇賞にも出られない前提で設計された馬が、その年の日本でいちばんの馬になった。 種牡馬になってからも、この馬は往復し続けた。浦河のイーストスタッドと新ひだかのアロースタッドを二年おきに移りながら、ウインクリューガーにNHKマイルカップを、メイショウボーラーにフェブラリーステークスを勝たせる。母の父としては、ワンアンドオンリーが東京優駿を勝った。自分には出走権のなかったレースを、孫の代が獲ってきたことになる。2017年に種牡馬を引退し、引退馬協会の所有馬として余生に入った。 2022年8月17日午前五時、新冠のノーザンレイクの馬房で息を引き取った。二十八歳。老衰による心不全で、前夜までいつもと変わらない一日を過ごしていたという。ドーヴィルの直線を走り切った日から、ちょうど二十四年後だった。 その前の週、ジャック・ル・マロワ賞にはまた日本の馬が出走していた。 「先週のジャックルマロワ賞の日本馬出走を見守って安心したのかもしれません」[^1] 引退馬協会の代表は、そう言葉を寄せている。 名は、往復する者。アメリカで生まれ、アイルランドで育ち、日本で走り、フランスで勝って、日本へ帰ってきた。最後の一度だけが、片道だった。
出典:Number Web「《追悼》タイキシャトルは日本競馬史上もっとも偉大なマイラーだった…クールな岡部幸雄が涙ながらに語った『ジャックルマロワ賞に勝てて、ほんとうに…』」(文・江面弘也)2022年8月20日配信、https://number.bunshun.jp/articles/-/854318 、閲覧日:2026年8月3日。
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