名馬の記憶を、
再生する。

年表ICHINEN-ISSO — 2400m

BOKUJŌ-CHŌ — HOKKAIDO

牧場帖

一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。
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この世代(生まれ年)

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タマモクロスのイメージビジュアル
タマモクロスTamamo Cross
Tamamo Cross

タマモクロス

通算成績18戦9勝

獲得賞金48,967万円

生年月日 1984.05.23(昭和59年)毛色 芦毛

全成績

主要戦績(抜粋)・新しい順
タマモクロスの成績一覧
年月日着順レースコース人気騎手タイム上り3F映像
2 GI有馬記念 中山 芝2500 1人気 南井克巳 2:34.0 上り35.0映像
2 GIジャパンカップ 東京 芝2400 1人気 南井克巳 2:25.6 上り47.6映像
1 GI天皇賞(秋) 東京 芝2000 2人気 南井克巳 1:58.8 上り46.7映像
1 GI宝塚記念 阪神 芝2200 2人気 南井克巳 2:13.2 上り48.0映像
1 GI天皇賞(春) 京都 芝3200 1人気 南井克巳 3:21.8 上り49.4映像
1 GII阪神大賞典 阪神 芝3000 1人気 南井克巳 3:12.1 上り47.7
1 GIIIスポニチ賞金杯 京都 芝2000 1人気 南井克巳 2:03.7 上り48.0
1 GII鳴尾記念 阪神 芝2500 3人気 南井克巳 2:33.0 上り47.4
1 藤森特別 京都 芝2000 1人気 松永幹夫 2:03.0 上り48.2
1 4歳以上400万下 京都 芝2200 5人気 南井克巳 2:16.2 上り48.0
3 4歳以上400万下 阪神 ダ1700 1人気 南井克巳 1:47.9 上り50.2
3 能勢特別 阪神 ダ1800 3人気 南井克巳 1:55.0 上り51.7
2 礼文特別 札幌 ダ2000 7人気 安田富男 2:07.1 上り38.4
6 4歳以上400万下 札幌 ダ1800 7人気 田原成貴 1:55.6 上り38.9
4歳400万下 京都 芝2000 6人気 南井克巳
1 4歳未勝利 阪神 ダ1700 2人気 南井克巳 1:48.3 上り51.4
4 4歳新馬 阪神 ダ1800 2人気 南井克巳 1:56.3 上り53.7
7 4歳新馬 阪神 芝2000 2人気 南井克巳 2:07.1 上り52.9

血統

金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ
タマモクロスの血統表(左から親・祖父母・曽祖父母)
シービークロスフォルティノGrey Sovereign
Ranavalo
ズイシヨウパーソロンPartholon
キムラス
グリーンシャトーシャトーゲイChateaugaySwaps
Banquet Bell
クインビーテューダーペリオッドTudor Period
コーサ
STORY

旅程 — この馬の物語

1984年生まれの芦毛の牡馬。父シービークロス、母グリーンシャトー。主な勝ち鞍は天皇賞(春)・宝塚記念・天皇賞(秋)。

ニシキノクロス ― 一九八四年、新冠

1984年5月23日、北海道新冠町の錦野牧場で芦毛の牡馬が生まれた。幼名はニシキノクロス。父はシービークロス、母はグリーンシャトーである。 場主の錦野昌章は1975年に牧場を開き、繁殖牝馬を十一頭抱えていた。その中でいちばん値打ちのある一頭がグリーンシャトーだった。母の父シャトーゲイは1963年のケンタッキーダービーとベルモントステークスを勝ってから日本へ渡ってきた馬である。グリーンシャトー自身は栗東で十九戦を走り、北橋修二を鞍上に三勝した。北橋が騎手をやめて調教師になったあと、今度は自分の厩舎でこの牝馬を預かり、さらに三勝させている。 父になる馬は、錦野が自分で連れてきた。新冠軽種馬青年部を同じころに卒えた生産者十人でつくったOB会が、種牡馬を自分たちで持ちたがっていた。錦野が真っ先に挙げた名がシービークロスだった。千明牧場から無償で譲られ、新冠町農協畜産センターで種牡馬になる。1975年に浦河で生まれた芦毛で、吉永正人を背に後方から一気に差し込む競馬から「白い稲妻」と呼ばれた馬だった。重賞は金杯(東)、毎日王冠、目黒記念(秋)の三つ。種付け料は表向き十万円から三十万円で、実際には酒二升でもいいから頼む、という話が交わされる程度の評価だった。錦野は、その父を自分の最良の繁殖牝馬に付けた。 生まれた仔は細かった。脚の長さばかりが目につく華奢な体で、飼葉を食う量は牝馬より少ない。父を管理していた松山吉三郎はこの仔を牧場で見ているが、馬主に買えとは勧めなかった。 グリーンシャトーは預託馬で、その持ち主が苦境に陥って馬主業をたたむことになる。持ち主は友人の美術商・三野道夫に、この牝馬の産んだ三頭を引き取ってくれと頼んだ。三野は承知した。当歳のニシキノクロスに付いた値は四百万円とも五百万円とも伝わる。三野は牧場で何度かこの仔と顔を合わせているが、芦毛だという以外に強い印象は残らなかったという。 競走馬として登録するとき、名は三野の冠名と父の名を継ぎ足して決まった。高松市の出身である三野は、高松城の別名「玉藻城」からタマモを取っていた。それに父の「クロス」を足す。タマモクロス。 預けられたのは栗東の小原伊佐美厩舎。厩務員は藤崎春夫が担当した。入厩したころの小原の評は、牝馬のような馬、というものだった。ただ一人、検診に来た獣医だけが違うことを言った。この馬は心臓がすごくいい、きっと出世するから名前を覚えておこう。 1987年3月1日、阪神の芝2000メートルの新馬戦。鞍上は南井克巳。二番人気に推されて逃げたが、直線で止まって七着に終わった。

無人のまま、一周

二戦目からダートに替えた。三戦目、4月11日の阪神ダート1700メートルで初勝利。ここまでは、遅い馬なりの普通の出発だった。 5月10日、京都の芝2000メートル。この日は後ろから運び、七、八番手を追走していた。そこへ前の馬が落ちた。巻き込まれてタマモクロスも落馬する。成績表に残るのは着順ではなく、競走中止の四文字である。鞍上を失った馬はそのままコースを一周し、体じゅうに打撲を負って戻ってきた。 恐怖は残った。以後は馬運車を見ただけで怯えるようになる。札幌と阪神のダートで四つ走って六着、二着、三着、三着。直線で外へ逃げる。他の馬が寄ってくるのを嫌がる。力を出せていないのは明らかで、陣営は障害への転向まで考えていた。 同じ年、生まれた場所のほうも消えていた。1987年5月、錦野牧場は経営不振で閉鎖する。負債は東京で不動産業を営む飯島和吉が肩代わりし、錦野は東京近郊へ移って建築関係の仕事に就いた。繋いでいた繁殖牝馬も幼駒も、方々へ散っていった。 母グリーンシャトーも売りに出され、前年の秋からマエコウファームにいた。1987年6月24日、アーテイアスの牡馬を産む。その直後の7月、腸捻転で死んだ。十三歳だった。 息子はまだ、一勝しかしていなかった。

手綱を動かさずに ― 十月の京都

最後にもう一度だけ芝を試した。10月18日、京都の芝2200メートル、四歳以上四百万下。五番人気。 五番手から抜け出し、そこから南井は手綱を動かしていない。動かさないまま差は七馬身に広がった。走破タイムは2分16秒2。同じ日、同じ京都の同じ2200メートルで菊花賞トライアルの京都新聞杯が行われ、武豊が全力で追ったレオテンザンが勝っている。そちらより0秒1速かった。 二週間後の藤森特別は松永幹夫に乗り替わった。三コーナーから仕掛けて八馬身。松永は「このクラスにいる馬じゃない」[^1]と評した。新聞は遅れてきた大物、関西の秘密兵器と書き立てた。 菊花賞に行けるという声が出た。ただし連闘になる。小原は行かせなかった。この馬が本物になるのは翌年の秋だと踏んでおり、いま無理をさせれば壊れると考えていた。 同期の頂点を決めるレースを、タマモクロスは走らないまま秋を終えた。

出典:Number Web(文藝春秋)鈴木学「今は騎手変更、騎手変更ばかりでしょ」ナリタブライアンの主戦・南井克巳が感謝する“タマモクロスの縁”「GI勝利だけで人間の価値は…」2024年6月1日配信、https://number.bunshun.jp/articles/-/861774 、閲覧日:2026年8月3日。

内から、内から ― 冬の三連勝

12月6日、阪神の鳴尾記念。格上挑戦で、重賞は初めてだった。一番人気は同期のゴールドシチー、二番人気は前年の菊花賞馬メジロデュレン。タマモクロスは単勝5.8倍の三番人気にすぎない。 スタートで出遅れ、最後方から。十三頭中九番手で最終コーナーを回り、直線では前を五頭に塞がれていた。残り三百メートル、内にわずかな隙間ができる。そこへ入った。馬場のいちばん内側から伸びて、残り百五十で抜け出す。二着メイショウエイカンとの差は六馬身。稍重の馬場で2分33秒0のコースレコードだった。当時、関東で流れる関西の競馬はほぼ重賞に限られていた。関東の競馬ファンにとって、この馬はまだ馴染みのない名前だった。 有馬記念に出せという声が上がった。小原は断った。この馬はレースのあと飼葉が減って痩せる。中山までの輸送に耐えられない、という判断である。代わりに三野が言った。年の初めに勝つと縁起がいい。小原は自分で組んでいた日経新春杯からのローテーションを引っ込め、正月の金杯を使った。 1月5日、京都の金杯(西)。2.2倍の一番人気。またしても最後方に置かれ、直線でも前に五頭。残り三百でできた隙間を内から突き、残り百で十五頭すべてをかわして先頭に立った。二着ハローポイントとの差は四分の三馬身。南井はのちに、四コーナーではもう駄目だと思っていたと振り返っている。このころから、父と同じ「白い稲妻」の呼び名がこの馬にも付いた。 3月13日の阪神大賞典は七頭立て。ダイナカーペンターが逃げて一ハロン十三秒台が続く超スローになり、終始かかりながら一周目のスタンド前で三番手まで上がった。直線は外をマルブツファースト、内をダイナカーペンターに挟まれる。二頭の間をこじ開けて、三頭が並んだままゴール板を通過した。写真判定の結果は、ダイナカーペンターとの一着同着。重賞での同着は1979年の福島記念以来、九年ぶり五例目だった。 芝に戻してから、五連勝。

盾 ― 四月二十九日

1988年4月29日、京都。天皇賞(春)。GIは初めての出走だったが、同期のGI馬ゴールドシチーも、ダービーを勝ったメリーナイスも抑えて一番人気になった。曇り、芝は稍重。 父シービークロスも、この盾を狙って敗れている。1980年、一番人気に推されながら四着だった。 最初のゴール板を通過するときは後方にいた。前半の1600メートルが1分39秒6という速い流れで、先行勢は消耗していく。向正面で外へ持ち出し、中団のゴールドシチーを捕まえる位置まで押し上げた。失速する馬を外から抜いて四コーナーは五番手。直線に入ると、今度は内へ潜った。前ではメジロデュレンとランニングフリーが馬体を併せて競り合っている。その内側をすくうように先頭へ出た。 3分21秒8。二着ランニングフリーとの差は三馬身。天皇賞(春)でこれだけ離れたのは、1968年に大差で勝ったヒカルタカイ以来のことだった。六連勝、重賞に限れば四連勝で、初めてのGIである。 待っていた時間は、鞍上のほうが長い。南井克巳は騎手生活十八年目。八大競走で五十回、旧八大競走を含めたGIでは四十回、勝てないまま負け続けてきた。この日が最初のタイトルになる。のちに、勝てなかった歳月について訊かれるたび、南井はこう答えていたという。「GIを勝ったとかで人間の価値は決められない」[^1] もう一人、待っていた人がいた。馬主の三野道夫は明治三十四年生まれの八十七歳。馬主歴五十年で、これが初めてのGIだった。ダービーを勝つより天皇賞の盾が欲しい、が口癖だったという。盾を受け取るときにJRAの係員から渡されるはずの白手袋を、三野はこの日、自分で用意して持ってきていた。調教師の小原にとっても、1980年の開業から数えて初めてのGIだった。 表彰台に上がらなかった人間がひとりいる。錦野昌章である。債権者との問題が片づいておらず、表に出られる立場ではなかった。それでも京都には来ていた。人目を避けて、自分が生産した馬が盾を獲る場所に立っていた。

出典:Number Web(文藝春秋)鈴木学「今は騎手変更、騎手変更ばかりでしょ」ナリタブライアンの主戦・南井克巳が感謝する“タマモクロスの縁”「GI勝利だけで人間の価値は…」2024年6月1日配信、https://number.bunshun.jp/articles/-/861774 、閲覧日:2026年8月3日。

ファン投票一位の六月

6月12日、阪神の宝塚記念。ファン投票の一位で出走した。それでも単勝は3.0倍の二番人気で、一番人気は2.1倍のニッポーテイオー。安田記念でGI三勝目を挙げ、獲得賞金五億円に届いた馬である。二頭とも単枠指定になった。 岡部幸雄のメジロフルマーが逃げ、ニッポーテイオーが二番手。タマモクロスは後方に置かれた。向正面で押し上げて五番手まで来ると、三コーナーではあえて近づかず、ニッポーテイオーの外で待った。四コーナー、ニッポーテイオーが逃げ馬をかわして抜け出す。その外から追い上げを始め、残り二百メートルで、並ぶ間もなくかわした。二馬身半。七連勝、GIは二つ続けて獲った。 ニッポーテイオーの鞍上だった郷原洋行は、六連勝中の馬だとわかってはいたが、あれほどの切れ味があるとは思わなかったと振り返っている。 夏は北海道へ渡り、7月24日には札幌の客の前に姿を見せた。休養に充てたのは三日ほどだったという。8月の末には東京競馬場に入り、そこで秋を待った。

二番手

1988年10月30日、府中。その年のダービーに次ぐ十二万人が入った。 それまで、芦毛は弱い馬の色ということになっていた。超一流はいない、良くも悪くも名脇役、という言われ方をしてきた毛色である。その日、一番人気と二番人気を分け合ったのは芦毛の二頭だった。オグリキャップとタマモクロス。どちらも単枠指定。売り上げのうち八割以上が、この二頭のどちらかに絡む馬券に流れた。 ゲートが開く。レジェンドテイオーが後続を離しにかかった。 タマモクロスは、二番手にいた。 追い込み一手と見られていた馬が、逃げ馬のすぐ後ろにいる。場内は大きくどよめいたと伝えられている。小原は思わず声に出している。これはバテる、と。逃げて直線で止まった新馬戦の記憶が、そこにあった。オグリキャップはその五、六馬身後ろ、中団の内で息を潜めていた。 前半の千メートルは59秒4。二年前にサクラユタカオーが日本レコードを出したときの逃げより速い。緩まない流れの二番手で、この馬はまるで嫌がっていなかった。三番手にいたカイラスアモンの安田富男が、あとで証言している。かかるどころか、不思議なほど折り合っていた。つけいる隙などなかった、と。 未勝利のころ、検診の獣医が言い残していったことがある。この馬は心臓がいい。 四コーナーの手前から、前との差が縮みはじめる。直線に入ってまもなく、タマモクロスが先頭に立った。 ここから、南井は後ろを見る。左回りだから、外から来る相手は右の後ろにいる。南井は右後ろを、二度、三度と振り返った。数えるほど確かめて、相手を一頭に絞っている。 オグリキャップが外へ持ち出し、追い上げを始めた。南井が鞭を入れる。差はそこから縮まらない。ラップは最後まで緩まなかった。終いの二ハロンが11秒7、11秒5。逃げ馬が刻んだ速い流れの果てで、二頭はまだ加速していた。 ゴール前、オグリキャップは身をよじるように内へもたれた。態勢を立て直したときには、余力が残っていない。タマモクロスは、一馬身四分の一先にいた。

二度の半馬身

天皇賞を春と秋で続けて勝った馬は、それまでいなかった。1981年に天皇賞馬の再出走が認められて以降、六頭が挑んで届かなかった記録である。GIだけを三つ続けて勝ったのも、この馬が最初だった。重賞の連勝は六まで伸び、当時の記録に並んだ。JRAの理事長は、この一戦をわが国の競馬史に残る名勝負だと評している。 11月27日、ジャパンカップ。凱旋門賞馬が日本に来たのはこの年が初めてで、イタリアからトニービンが参戦した。英インターナショナルステークスを勝ったシェイディハイツ、オセアニアのボーンクラッシャーも加わり、四大陸決戦と呼ばれた。ライバルを問われたトニービンのカミーチ調教師は、日本の馬だ、タマモクロスだ、と即答している。単勝はタマモクロスが3.2倍で一番人気、トニービンが3.9倍、オグリキャップが6.9倍だった。 メジロデュレンが逃げ、オグリキャップは好位、トニービンは中団、タマモクロスは後方。二コーナーでシェイディハイツが先頭に替わってペースが落ちた。三コーナーで各馬が動き出し、オグリキャップは下がっていく。タマモクロスは最終コーナーを大外から四頭並んで上がり、残り三百メートルでいったん先頭に立った。そこへ内を突いたペイザバトラーが来る。半馬身差の二着。日本で調教された馬では最先着で、その一馬身四分の一後ろの三着がオグリキャップだった。 ペイザバトラーの斜行には戒告が出た。鞍上のクリス・マッキャロンは東京のレースの録画を片端から見て、敵は日本の芦毛二頭だと結論し、タマモクロスとだけは馬体を併せないと決めていたという。それを聞いた小原は、マッキャロンは本物の勝負師だと言った。南井は、四コーナーの仕掛けをひと呼吸遅らせていれば負けなかったと振り返っている。 このレースのあと、年内で引退して翌年から種牡馬になると報じられた。小原は引き際が大事だと言った。いい時期にやめてこそ種牡馬としての値が上がる、と。惜しむ声はあったが、押し切ったのはオーナーだったという。 12月25日、有馬記念。十二月の初めに美浦へ移ったところで水が合わず、食う量が落ちた。厩舎のスタッフはミネラルウォーターを買い込んで飼葉に混ぜ、精力剤まで飲ませて食欲を戻そうとした。同じ時期、同じ美浦にオグリキャップもいた。そちらは寝藁まで口にしていて、調教助手の井高淳一はそれを羨ましく思ったという。15日には追い切りを一度取りやめた。17日には六ハロンから追えるまで戻ったが、馬なりで、この大一番に足りる内容ではなかった。中山でのスクーリングも、神経質でこの馬にはできない、というのが陣営の判断だった。 それでもファン投票は十八万票を集めて一位。オグリキャップの十七万票を上回っていた。単勝2.4倍の一番人気。 ゲートの出が悪く、最後方に置かれた。道中は折り合いを欠いて外へ外へ逃げるように走る。岡部幸雄に乗り替わったオグリキャップは好スタートから好位を進んだ。遅い流れの中、三コーナーから四コーナーにかけて大外からまくり上げ、オグリキャップの外へ並びかける。直線は芦毛二頭の叩き合いになった。内を回ったほうに半馬身届かず、二着。南井は、いつものタマモクロスではなかったと振り返っている。 三度の顔合わせだった。天皇賞(秋)とジャパンカップはタマモクロスが一馬身四分の一先着し、有馬記念はオグリキャップが半馬身先着した。走った距離は合わせて6900メートル、着差の合計は三馬身である。 年末のJRA賞は、百七十二票のうち百六十五票がこの馬に入った。年度代表馬、最優秀五歳以上牡馬、最優秀父内国産馬。1989年1月15日に京都で引退式が行われ、17日、三野ら五十人に拍手で見送られて厩舎を出た。芝に戻してからの十戦は、すべて一着か二着だった。

借りものの異名

同じ1988年の秋、錦野牧場が生産したもう一頭がGIを勝っている。タマモクロスの半妹ミヤマポピー。父はカブラヤオーで、1985年5月26日の生まれ。六番人気でエリザベス女王杯に出て、単枠指定の一番人気シヨノロマンをハナ差だけ抑えた。 その年、錦野牧場の生産馬五頭が稼いだ額はおよそ五億三千万円。二百七十六頭を送り出した社台ファーム、百二十三頭の西山牧場に次いで、生産者の第三位である。走っていたのは、もう存在しない牧場の馬たちだった。牧場の跡地では、負債を引き受けた飯島和吉の次男が別の名で新しい牧場を開いている。開場したのは、タマモクロスが藤森特別で三勝目を挙げた日だった。 1989年、タマモクロスは静内のアロースタッドで種牡馬になった。シンボリルドルフと同額、十億円のシンジケートが組まれた。気性の激しさは競走をやめても抜けず、放牧地の柵には赤いペンキで「チカヨルナ」と書いた板が下がっていたという。産駒からはマイソールサウンド、カネツクロス、ダンツシリウスが出た。 2003年4月10日、腸捻転で死んだ。十九歳。母を連れていったのと同じ病だった。墓碑は新ひだか町の桜舞馬公園にある。 南井克巳は、そのあとも勝ち続けた。1994年にはナリタブライアンで三冠を獲り、騎手として中央のGIを十六まで積み上げている。それでも後年の南井が繰り返し語ったのは、自分の腕のことではなかった。勝ち切れずにいた条件馬の手綱を、小原伊佐美が最後まで降ろさなかったこと。タマモの馬に、そのあともずっと乗せてもらったこと。「昔は乗れなかった僕だって、そういうチャンスを与えていただいて大レースを勝つことができた」[^1] 縁は先まで続いた。2000年に厩舎を開いた南井のもとへ、タマモの馬が預けられる。2018年11月、京都の障害重賞を勝った芦毛のタマモプラネットは、母の父がタマモクロスだった。三十年前に自分が乗った馬の孫を、今度は自分の厩舎から送り出したことになる。2023年2月、七十歳の定年で調教師を退いた日、南井は花束を受け取りながら泣き、十五歳でこの世界に入って五十五年、無事に最後を迎えられたと語った。 牧場で見た調教師が馬主に勧めなかった細身の芦毛。障害に回すことまで考えられた馬。府中の直線で、鞍上に二度も三度も後ろを振り返らせておいて、ついに並ばせなかった馬。 白い稲妻という名は、もともと父のものだった。息子はそれを一年だけ借りて、その一年で、芦毛という色の意味ごと書き換えて返した。

出典:Number Web(文藝春秋)鈴木学「今は騎手変更、騎手変更ばかりでしょ」ナリタブライアンの主戦・南井克巳が感謝する“タマモクロスの縁”「GI勝利だけで人間の価値は…」2024年6月1日配信、https://number.bunshun.jp/articles/-/861774 、閲覧日:2026年8月3日。

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