名馬の記憶を、
再生する。

年表ICHINEN-ISSO — 2400m

BOKUJŌ-CHŌ — HOKKAIDO

牧場帖

一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。
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名馬録

この世代(生まれ年)

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テンポイントのイメージビジュアル
テンポイントTen Point
Ten Point

テンポイント

通算成績18戦11勝

生年 1973(昭和48年)毛色 栗毛

全成績

主要戦績(抜粋)・新しい順
テンポイントの成績一覧
年月日着順レースコース人気騎手タイム映像
競走中止 重賞日本経済新春杯 京都 芝2400 1人気 鹿戸明
1 八大競走有馬記念 中山 芝2500 1人気 鹿戸明 2:35.4 映像
1 オープン 京都 芝2000 鹿戸明
1 重賞京都大賞典 京都 芝2400 鹿戸明
2 重賞宝塚記念 阪神 芝2200 鹿戸明
1 八大競走天皇賞(春) 京都 芝3200 1人気 鹿戸明 3:21.7
1 重賞鳴尾記念 阪神 芝2400 鹿戸明
1 重賞京都記念 京都 芝2000 鹿戸明
2 八大競走有馬記念 中山 芝2500 3人気 鹿戸明 2:34.1
2 八大競走菊花賞 京都 芝3000 3人気 鹿戸明 3:10.3
3 重賞京都大賞典 京都 芝2400 鹿戸明
7 八大競走東京優駿(日本ダービー) 東京 芝2400 2人気 武邦彦
2 八大競走皐月賞 中山 芝2000 1人気 鹿戸明 2:02.4
1 重賞スプリングステークス 中山 芝1800 1人気 鹿戸明
1 重賞東京4歳ステークス 東京 芝1600 1人気 鹿戸明
1 重賞阪神3歳ステークス 阪神 芝1600 1人気 鹿戸明 1:37.1
1 もみじ賞 京都 芝1400 鹿戸明
1 新馬 函館 芝1000 1人気 鹿戸明 0:58.8

血統

金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ
テンポイントの血統表(左から親・祖父母・曽祖父母)
コントライトContriteネヴァーセイダイNever Say DieナスルーラNasrullah
シンギンググラスSinging Grass
ペニテンスPenitenceペティションPetition
ブートレスBootless
ワカクモWakakumoカバーラップ二世カバーアップCover Up
ベティマーチンBetty Martin
丘高セフトTheft
月丘
STORY

旅程 — この馬の物語

額の流星が美しい『貴公子』。トウショウボーイとの死闘の末に掴んだ有馬記念は、昭和競馬の金字塔。

亡霊の孫

1952年の冬、京都競馬場の隔離厩舎に一頭の牝馬がいた。名をクモワカという。馬伝染性貧血と診断され、京都府知事の名で、年内に殺処分せよという通告が出ていた。 ところが決め手になる証拠は出てこない。隔離された馬の熱は、日を追うごとに引いていった。関係者は診断を疑い、学術研究用の馬として残してほしいと願い出る。処分は先送りになった。 1955年、クモワカは北海道早来町の吉田牧場へ移される。牧場は丘高という繁殖名で登録を申請し、いったんは受理された。だが協会は丘高がクモワカであることを察知し、登録を取り消す。殺処分の通告が出ている馬は登録できない、という理屈である。馬主の山本谷五郎は訴え出た。子を産めることこそ、感染していない証拠ではないか。それが言い分だった。 決着は1963年の秋。再検査で陰性と確認され、クモワカとその産駒の登録がようやく認められた。寺山修司は、この十年余りを競馬界の岩窟王事件と呼んでいる。 登録が通ったその年に生まれた娘が、ワカクモである。1966年の桜花賞を、クビ・ハナの接戦で勝った。母クモワカは、かつて同じ桜花賞で2着に敗れている。娘が晴らした無念だった。 1973年4月19日、そのワカクモが吉田牧場で栗毛の牡を産む。額に、まっすぐな流星が入っていた。牧場の吉田重雄が電話で購入を勧め、馬主の高田久成が1500万円で買う。預け先は、栗東の小川佐助厩舎に決まった。 名前は活字から採られた。当時の新聞の本文は8ポイントの活字で組まれている。10ポイントの、もっと大きな活字で報じられる馬になってほしい。テンポイント。 殺されるはずだった馬の血は、その孫まで届いていた。一族は「亡霊の子」「亡霊の孫」と呼ばれた。

函館、五十八秒八

騎手は、調教師が名指しで決めた。鹿戸明。1943年に樺太で生まれ、戦後に日高の門別へ移り、中学を出た1959年、近所の牧場の紹介で小川のもとへ弟子入りした男である。1964年に免許を取り、以来ずっと小川厩舎の所属だった。重賞は1971年の秋に二つ勝っている。それきり、大きな鞍には縁が無かった。 1975年8月17日、函館の芝1000メートル。単勝1.6倍の1番人気。ゲートが開くとすぐ先頭に立ち、2着に10馬身をつけて入線した。0分58秒8は、そのコースのレコードを0秒5縮める時計である。隣の枠にいたグレートリボの鞍上・清水英次は、スタートしてすぐ自分の前からいなくなった、と語っている。 鹿戸のほうは驚いていない。三日前の調教で、これくらいは走ると分かっていた。 11月のもみじ賞は9馬身差。12月、関西の3歳王者を決める阪神3歳ステークスに向かう。単勝の支持率は五割を超えた。 ところが三コーナーを過ぎたあたりで、ハミが利かなくなった。口に噛ませた金具を通して手綱の指示を伝えるのが騎乗の基本だが、その反応が抜けたのである。三番手から六番手まで下がった。四コーナーで押し上げ、直線の半ばで先頭に立ち、そこから7馬身離す。走破時計は、同じ日に行われた古馬のオープン競走より速かった。 関西テレビの杉本清が絶叫したのは、このレースである。「見てくれこの脚!これが関西の期待テンポイントだ!」[^1] 3戦3勝。その年の最優秀3歳牡馬に、投票の四分の三を集めて選ばれた。

出典:日本語版ウィキペディア「テンポイント」(杉本清の実況)、https://ja.wikipedia.org/wiki/テンポイント 、閲覧日:2026年8月3日。

一九七六年、無冠

1976年1月31日、東京の4歳新馬。鹿戸はタイエンジェルという馬に乗り、6着だった。1番人気で3馬身差の楽勝を収めたのがトウショウボーイ、4着がグリーングラス、5着がのちにミスターシービーを産むシービークインである。後年「伝説の新馬戦」と呼ばれる一鞍を、鹿戸は後ろから見ていた。この先二年近く、自分が追い続けることになる背中だとは、まだ分からない。 半月後の東京4歳ステークスは、ダービーに備えて府中の坂を覚えさせるための遠征だった。勝ちはしたが、半馬身。三月のスプリングステークスも勝って、クビ差。5戦5勝でクラシックへ進みながら、関東からは怪物ではないという声が上がった。スプリングステークスの一週前に、トウショウボーイが2着に5馬身をつけて三連勝を決めていたからでもある。 皐月賞は、競馬の外の事情に揺さぶられた。厩務員の労働組合と調教師会の交渉がこじれ、4月18日の開催が中止になるかどうか読めない。陣営はストライキは無いと踏んで三日前に強い調教を課したが、開催は一週間延びた。今度は再び延びると踏んで24日に負荷をかけたところ、その数時間後にクラシックだけは行うと決まる。二度、裏目に出た。疲れが抜けず、苛立ちが出た。 4月25日、1番人気。トウショウボーイに5馬身離されて2着。 5月9日、京都で鹿戸が落馬し、骨盤を折った。全治二か月。ダービーの鞍上は武邦彦になる。この馬の18戦のうち、鹿戸が乗らなかったのはこの一戦だけである。テンポイントは三コーナーから加速できず、道中で蹄鉄が外れていたことも響いて7着に終わった。レース後、左前脚の剥離骨折が見つかる。 秋の復帰戦に選ばれたのは、菊花賞のトライアルではなく、古馬相手の京都大賞典だった。6番人気で、勝ち馬と0秒1差の3着。続く菊花賞は3番人気。鹿戸はトウショウボーイをマークして進め、直線でその馬を捉えて先頭に立った。前夜の雨で濡れた馬場に、トウショウボーイは苦しんでいた。 だが、テンポイントには苦しくなると外へ膨れる癖がある。脚に慢性の骨膜炎を抱えていたためだった。空いた内側を、12番人気のグリーングラスが伸びてきた。2馬身半差の2着。勝った瞬間の京都競馬場には、大レースのあとに必ず湧くはずの歓声が起きなかったと記録されている。 暮れの有馬記念は5、6番手から。三コーナーで前が塞がり、いったん緩めて外へ出し直した。直線で先頭に立ったトウショウボーイとの差は1馬身半のまま縮まらない。その日のトウショウボーイの2分34秒0は、2500メートルの日本レコードだった。 この年、鹿戸の勝ち星は五つ。うち二つが、この馬での重賞である。無冠のまま一年が終わり、貴公子の前に悲運という二文字が付き始めた。 レースのあと、鹿戸はこう言っている。「なにかひとつ、テンポイントに大きなレースを勝たせてやりたかった。それが心残りだ。しかし、来年になれば、きっと……」[^1]

出典:日本語版ウィキペディア「テンポイント」(鹿戸明の談話)、https://ja.wikipedia.org/wiki/テンポイント 、閲覧日:2026年8月3日。

淀の三千二百

陣営は春の天皇賞に狙いを定め、その前に二戦を置いた。京都記念は59キロ、鳴尾記念は61キロ。重い斤量を背負って、どちらもクビ差で勝ち上がる。 1977年4月29日、京都の3200メートル。人気が一頭に集まりすぎたときに、その馬だけを独立した枠に入れる単枠指定という制度が当時あった。テンポイントはその適用を受け、1番人気で発走を待った。 道中は5、6番手。四コーナーで先頭に立ち、グリーングラス、ホクトボーイ、クラウンピラードの追撃を退けた。3分21秒7。デビューから一年八か月、初めての八大競走だった。 ゴールのあと、スタンドから手拍子と口笛が起きた。当時の中央競馬には無かった光景だという。 前の年の暮れに鹿戸が言い残した「来年になれば」が、その日、本当に来た。

鞍に五キロの鉛

6月5日、宝塚記念。トウショウボーイは前年の有馬記念から五か月あいており、動きが良くないと伝えられて人気を落としていた。1番人気はテンポイント。 レースは、逃げたトウショウボーイを二番手で追いかける形になった。そのまま、交わせずに終わる。トウショウボーイがラスト1000メートルで刻んだ57秒6は、当時の芝1000メートルの日本レコードより速い数字だった。鹿戸は、相手をトウショウボーイ一頭に絞り切れず後ろばかり警戒してしまった、自分のミスだと振り返っている。 テンポイントは永久にこの馬に勝てない。そういう声が出た。対戦成績は1勝4敗になっていた。 アメリカのワシントンD.C.インターナショナルから招待が届いたが、陣営は断った。倒すべき相手は国内にいる。年末の有馬記念だけを見ることにした。 小川と鹿戸は、鞍に5キロの鉛を積んで追い切る方法に切り替える。時には80キロを背負わせた。九月に入る頃、馬体重は20キロ以上増えて500キロ近くなっていた。厩務員の山田幸守は、これで劣るところが無くなった、これなら勝てると感じたと語っている。 そのうえで陣営は、戦法を変えた。逃げる、と決めたのである。 10月の京都大賞典は63キロを背負って8馬身差の逃げ切り。次のオープンも逃げて勝った。馬主の高田は、この秋の勝ちっぷりを見て、以前からの夢だった海外遠征をいま実行すべきだと判断している。

一九七七年十二月十八日

ファン投票の一位はテンポイントだった。トウショウボーイは、このレースを最後に引退すると決まっていた。有力馬が次々と回避し、中山に集まったのは八頭だけである。 レース前、鹿戸はどう乗るべきかを小川に尋ねている。返ってきたのは、勝てるよ、の一言だった。 ゲートが開く。先に前へ出たのはトウショウボーイ。テンポイントはすぐ外に馬体を並べ、抜いた。抜き返された。また抜いた。逃げると宣言していた馬が一頭いたが、その馬が先頭に立つ場所は、最初から空いていない。 向正面。三コーナー。四コーナー。二頭は並んだままだった。 競馬は普通、こうはならない。どちらかが息を入れ、どちらかが仕掛けを待つ。この日は、どちらもそれをしなかった。引くに引けない形にはまり込んだところで、鹿戸は腹をくくっている。「これで負けたら騎手をやめなけりゃいかんな」[^1] 直線。半ばまではトウショウボーイが前にいた。残り二百メートルで、テンポイントがその首を交わす。残り百メートル、トウショウボーイが差し返しにかかる。 先にゴール板を過ぎたのは、テンポイントだった。四分の三馬身。六度目の対戦にして、初めてこの相手のいるレースを勝った。 そして、二頭の斜め後ろに、もう一頭が来ていた。グリーングラス。トウショウボーイとの差は半馬身しかない。菊花賞で内を突いてきた馬が、また来ていたのである。武邦彦はレースが終わってもそれに気づかず、記者に聞かされて驚いたという。鹿戸のほうは、怖いレースをしたのだと思ったと振り返っている。 四着に入ったのは、その年の菊花賞馬プレストウコウ。前の三頭からは、六馬身離れていた。 この年、テンポイントは満票で年度代表馬に選ばれた。満票での選出は1956年のメイヂヒカリ以来、二頭目である。

出典:日本語版ウィキペディア「テンポイント」(鹿戸明の談話)、https://ja.wikipedia.org/wiki/テンポイント 、閲覧日:2026年8月3日。

四十三日

年が明け、陣営は海外遠征を発表した。二月にイギリスへ発つ。それが伝わると、関西のファンから、行く前にもう一度その姿を見たいという声が馬主と調教師のもとへ相次いだ。応えて選ばれたのが、1月22日の日本経済新春杯である。 課された負担重量は66.5キロだった。当時としても極めて重い。小川は67キロ以上なら出走を取り消すつもりでいたと伝えられる。高田も、鹿戸も、生産者の吉田重雄も、この斤量には懸念を抱いていたという。 当日の京都は雪だった。実況の杉本清は、門出を祝うかのように粉雪が舞っている、とレース前に伝えている。 好スタート。正面スタンド前では先頭に立った。向正面でビクトリアシチーとエリモジョージが競りかけてくる。斤量を苦にする様子は無く、鹿戸は勝てると感じていたという。三コーナーの坂では、テンポイントとエリモジョージが馬体を合わせて前を争っていた。 四コーナー。左後脚が折れた。後ろから引っぱられて沈み込むような感覚だった、と鹿戸はのちに語っている。テンポイントは競走を中止した。それでも、直線にかかるまで止まらなかった。後ろから来る馬に抜かれると走らずにいられない馬だったのだ、と鹿戸は説明している。 折れた骨は皮膚を破って外へ出ていた。獣医師は安楽死を勧める。高田が返事を保留した一日のあいだに、日本中央競馬会の電話は鳴りやまなくなった。助けてくれという嘆願が数千件。回線がパンクしかけたという。高田と小川には、せめて種牡馬にしてやりたいという願いもあった。成功の見込みを数パーセントと見積もったまま、手術が決まる。 翌日、33人の獣医師が集まった。麻酔をかけ、左後脚を切開し、特殊合金のボルトで骨を継ぎ、ジュラルミンのギプスで固める。二時間かかった。事故は一般紙まで動かし、1月23日付の朝日新聞は朝刊の三面の頭でこれを扱っている。 厩舎には千羽鶴が届いた。最終的に五万羽になる。人参が届いた。病床の子どもからの手紙も届いた。この馬が頑張っているのだから自分も頑張らなければと思える、だから助けてほしい、と書いてあった。 二月半ば、医師団はもう命は大丈夫だと言った。だが実際には、体重がかかるたびにボルトが曲がり、折れた骨はずれたまま固定されていた。2月13日、患部が腐り、骨が露出しているのが見つかる。下旬には反対の右後脚が蹄葉炎を起こした。蹄の内部が炎症を起こす病気で、馬にとっては命に関わる。食欲が落ちた。体が痩せていった。 3月3日、治療は事実上断念された。脚に体重がかからないよう吊り上げていた馬体を下ろし、横たわらせる。4日の夜は、山田幸守ら六人の厩務員が徹夜で付き添った。 3月5日、午前8時40分。青草とリンゴを口にしたあと、前脚と後脚に痙攣が来て、寝藁に沈むように倒れた。安楽死は最後まで行われていない。発表された死因は、全身衰弱による心不全だった。500キロ近くあった馬体は、高田が大きな犬のようだと思うほどに落ちていた。 山田は名前を叫び続け、息が止まったあとその首に抱きついて泣いた。鹿戸は、何も言わずにその場へ座り込んだ。 高田は、こう語っている。「助けてほしいという私のひとことが、かえってテンポイントを苦しめる結果になったように思えて辛い」[^1] NHKは昼のニュースの頭でこれを伝えた。フランスの通信社は動物愛の物語として世界に打電した。翌日のスポーツ各紙は、馬名の由来になった10ポイントとは比べものにならない大きさの活字で、その死を悼んだ。

出典:日本語版ウィキペディア「テンポイント」(高田久成の談話)、https://ja.wikipedia.org/wiki/テンポイント 、閲覧日:2026年8月3日。

早来へ帰る

3月7日、栗東で葬儀が営まれた。小川は自分の手で火葬したいと考えたが、滋賀県の条例で競走馬を焼却することは認められていない。遺体は冷凍されて北海道へ運ばれ、生まれた牧場に土葬された。 3月10日、吉田牧場でもう一度葬儀があり、関係者とファンおよそ四百人が集まった。途中から、母のワカクモと、前年に生まれたばかりの全弟が、その場に姿を見せている。二頭にも見送られた。競走馬の葬儀は日本で初めてで、人間以外では1935年の忠犬ハチ公以来、二例目だったという。 その全弟はキングスポイントと名づけられ、兄と同じ小川厩舎に入り、兄と同じ山田が担当した。デビュー戦の鞍上は鹿戸である。平地では1勝しかできなかったが、障害に転じて素質が開いた。1982年、中山大障害の春と秋を連覇し、その年の最優秀障害馬に選ばれる。1984年4月、その中山大障害で右前脚を折り、予後不良――回復の見込みが無いという判断――が下された。兄と同じように、レースの途中で走り終えたことになる。 母のワカクモは1993年7月まで生きた。31歳。息子たちを見送ってから、十五年が過ぎていた。 テンポイントの骨折のあと、日本中央競馬会はハンデキャップ競走などの負担重量を検討し直し、過度に重い斤量を課す風潮は改められた。安楽死の是非、厳冬期に競馬を行うことの是非も含め、当時さまざまな議論が起きたと記録されている。 小川佐助には、もうひとつ残したものがある。1976年に関東へ遠征した際、獣医から、関東の競馬場はゴール前に坂がある、関西には無い坂を走って腰を痛めることがあるから気をつけろと忠告を受けていた。実際、テンポイントは東京4歳ステークスで腰を痛めている。ダービーで7着に敗れたあと、小川は記者を集めた。関西馬が勝てないのは、競馬場にも栗東にも坂が無いからだ。栗東の調教コースに勾配をつけてくれ。そう涙ながらに訴えたという。 その秋、栗東の調教コースの一つに勾配がついた。坂路コースが完成したのは1985年である。1990年代、中央競馬の勢力図は西高東低に変わった。競馬評論家の大川慶次郎は、関西の時代を作る源になったのは小川調教師とテンポイントだった、と評している。

数字に出ないもの

1984年、中央競馬に顕彰馬の制度ができた。最初の選定に、テンポイントは入っていない。種牡馬としての実績が無く、競走成績だけを見るなら他に選ぶべき馬がいる、というのが理由だった。 発表のあと、抗議が届いた。選考委員の一人だった石川喬司によれば、なぜあの馬が入っていないのかという声のうち、いちばん多かったのがこの馬についてのものだったという。 1990年、テンポイントは顕彰馬に選ばれた。同じく委員だった大川慶次郎は、選出の理由を、数字には出てこないところで日本の競馬に大きく貢献したからだと説明している。 朝日新聞のコラム『天声人語』は、馬の名で浮かぶ時代がある、と書いた。高度成長が終わる七〇年代を象徴する馬として挙げられたのは、ハイセイコーとテンポイントだった。 鹿戸明は、そのあとも乗り続けた。1984年に鞍を降り、二年後に自分の厩舎を開き、2014年まで馬を送り出している。後年、この馬の主戦を務めたおかげで名が売れて一人前の騎手になれた、ずっと乗せてくれた小川と高田には頭が上がらない、と語った。寺山修司はかつて、鹿戸は成績が振るわないのに、テンポイントに乗るときだけは別人のようだったと書いている。 あの年の暮れ、ファンが待っていたのは、トウショウボーイの前に出る姿だった。それは中山の直線で受け取った。年が明けて、五万羽の鶴が待っていたのは、もう一度ゲートに入る姿である。そちらは、ついに来なかった。来なかったもののほうが、来たものと同じ長さだけ、人の中に残った。 山田幸守は、この馬に一度もメンコをかぶせていない。額のまっすぐな流星が、いつでも人から見えるようにである。走っているあいだ、その顔が隠されたことは一度も無かった。

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