名馬の記憶を、
再生する。

年表ICHINEN-ISSO — 2400m

BOKUJŌ-CHŌ — HOKKAIDO

牧場帖

一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。
HORSES

名馬録

この世代(生まれ年)

スライダーを動かすと、その世代に生まれた馬を獲得賞金の多い順で表示します。

名馬録
◀ 名馬録へ
トウカイテイオーのイメージビジュアル
トウカイテイオーTokai Teio
Tokai Teio

トウカイテイオー

通算成績12戦9勝

獲得賞金6470万円

生年月日 1988.04.20(昭和63年)毛色 鹿毛

全成績

主要戦績(抜粋)・新しい順
トウカイテイオーの成績一覧
年月日着順レースコース人気騎手タイム上り3F映像
1 GI有馬記念 中山 芝2500 4人気 田原成貴 2:30.9 上り35.0映像
11 GI有馬記念 中山 芝2500 1人気 田原成貴 2:34.8 上り35.5映像
1 GIジャパンカップ 東京 芝2400 5人気 岡部幸雄 2:24.6 上り36.3映像
7 GI天皇賞(秋) 東京 芝2000 1人気 岡部幸雄 1:59.1 上り38.0映像
5 GI天皇賞(春) 京都 芝3200 1人気 岡部幸雄 3:21.7 上り49.7映像
1 GII産經大阪杯 阪神 芝2000 1人気 岡部幸雄 2:06.3 上り47.3
1 GI東京優駿 東京 芝2400 1人気 安田隆行 2:25.9 上り36.0映像
1 GI皐月賞 中山 芝2000 1人気 安田隆行 2:01.8 上り36.7映像
1 OP若葉S 中山 芝2000 1人気 安田隆行 2:03.6 上り35.4
1 OP若駒S 京都 芝2000 1人気 安田隆行 2:01.4 上り48.5
1 OPシクラメンS 京都 芝2000 3人気 安田隆行 2:03.8 上り47.7
1 3歳新馬 中京 芝1800 1人気 安田隆行 1:52.9 上り37.9

血統

金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ
トウカイテイオーの血統表(左から親・祖父母・曽祖父母)
シンボリルドルフSymboli RudolfパーソロンPartholonMilesian
Paleo
スイートルナスピードシンボリSpeed Symboli
ダンスタイムDance Time
トウカイナチュラルナイスダンサーNorthern Dancer
Nice Princess
トウカイミドリファバージFaberge
トウカイクイン
STORY

旅程 — この馬の物語

1988年生まれの鹿毛の牡馬。父シンボリルドルフ、母トウカイナチュラル。主な勝ち鞍は皐月賞・東京優駿・ジャパンカップ。

一週間もたない、と言われた膝

この馬の物語は、彼が生まれるより前に、一頭の牝馬の膝から始まっている。 祖母にあたるトウカイミドリは、四戦目を終えた十二月、調教中に膝を折った。痛みで眠ることもできず、一週間はもたないと宣告された。ふつうなら安楽死が選ばれる状態である。馬主の内村正則が、それでも治療を続けてくれと頼んだ。ミドリは生き延び、繁殖牝馬になった。 この牝系は、日本ダービーを勝った三頭の牝馬のうちの一頭、ヒサトモに遡る。内村はこの血が絶えることを惜しんで、一族を何頭も手元に置いていた。ミドリの初仔トウカイローマンは1984年の優駿牝馬(オークス)を勝つ。二番仔のトウカイナチュラルは脚元に難があり、一度も競馬場に立てないまま繁殖に上がった。 内村がシンボリルドルフの種付権を手にしたとき、相手にと考えていたのは姉のローマンのほうだった。ところがローマンの現役生活が延びる。代役として種付けされたのが、走れなかった妹だった。 1988年4月20日、北海道新冠町の長浜牧場。生まれた牡駒は、父の異名「皇帝」からの連想で、その日のうちに「テイオー」と呼ばれはじめた。幼名はハマノテイオー。競走馬として登録されるとき、頭の三文字だけが馬主の冠名に替わっている。 脚が長く、華奢で、見栄えのする仔ではなかった。ただ、動き出すと体が異様に柔らかい。平取町の二風谷でおよそ一年を過ごし、1990年の秋、栗東の松元省一厩舎に入った。蹄を診た装蹄師は、馬を曳く厩務員に向かって、ダービー馬が来たな、と言ったという。

小倉の男

安田隆行は京都の五条に生まれた。競馬とは縁のない家である。中学生のときに父と京都競馬場へ行き、それきり騎手になると決めた。中学を出て梶与三男厩舎に入門し、1972年にデビューする。二年目の春、阪神の障害戦で落馬した。脳挫傷、意識不明の重体。半年かけて鞍に戻った。 その後の彼は、小倉で勝つ騎手になった。小倉開催で四十五週続けて勝った記録も持っている。「小倉男」と呼ばれ、本人もその呼ばれ方を誇った。GIのある週でも小倉へ行く。そういう乗り役だったから、デビューから二十年目まで、八大競走にもGIにも縁がなかった。 1990年12月1日、中京。松元省一は、この馬のデビュー戦にわざわざ中京を選んでいる。東京と同じ左回りを、ダービーの前に一度踏ませておきたかった。鞍上は、調教から跨って自ら志願した安田だった。 馬場は不良。先行有利といわれる小回りで、テイオーは後ろから進んだ。直線で内から抜け出し、安田が手綱を抑えたまま四馬身。安田はこの日、この一勝を含めて六勝を挙げ、当時の一日最多勝記録を作っている。 暮れのシクラメンステークス、明けて京都の若駒ステークス、東上初戦の若葉ステークス。四つ勝つあいだ、この馬は一度も鞭を入れられていない。若葉ステークスの単勝支持率は六割六分を超え、生涯の最高値になった。

一本目の指

1991年4月14日、中山。皐月賞。稍重。単枠指定を受けたテイオーは、大外の十八番に入った。不利だという声が多かったが、陣営は逆に読んだ。雨で内が荒れている。外なら荒れた地面を踏まずに済むし、揉まれることもない。安田も、揉まれない枠ならかえっていいと考えていた。 道中は馬場の外めを七、八番手。三コーナーで大外を回して押し上げ、直線では早めに先頭へ出た。二着は十六番人気のシャコーグレイド。ミスターシービーの仔である。三冠馬の息子が一着と二着を占めた。着差は一馬身で、ゴールでは安田がまた手綱を抑えていた。 松元省一にとって、開業十六年目にして初めてのGIだった。 記念撮影で、安田は馬上で人差し指を一本立てた。父シンボリルドルフの主戦だった岡部幸雄に倣った仕草である。意味ははっきりしていた。まず一冠。三冠を獲りにいく、という宣言だった。

二本目の指

一週間前から、スポーツ新聞はこの馬が勝つことを決まった話のように書いていた。前売りが始まると単勝は二倍を切る。当日の確定は一・六倍。皐月賞よりさらに強い支持だった。 1991年5月26日、東京優駿。またも八枠、今度は二十番。スタートしてすぐ六番手につけ、四コーナーまでその位置を動かさない。直線で外へ持ち出すと、伸び方が一頭だけ違った。二着レオダーバンとの差は三馬身。そのレオダーバンに乗っていた岡部は、安田が三度四度ミスをしてくれても敵わなかった、と述べている。 最後の六百メートルは三十六秒〇。レース全体の上がりより速い。無敗での二冠は父と同じで、東京優駿を八枠の馬が勝ったのは、このときが史上初だった。スタンドからは「ヤスダコール」が起きた。二十年目の男が、記念撮影で指を二本立てた。 表彰式を終えて出張馬房へ戻る頃には、もう歩様がおかしくなっていた。競馬場の診療所でレントゲンを撮り、三日後に発表される。左第三足根骨骨折、全治六か月。菊花賞は無い。NHKはこれを一般のニュースと同じ扱いで報じた。 安田は天国から地獄へ落とされた気分だったと振り返り、松元は、ダービーの前でなくてよかったと自分に言い聞かせたという。三本目の指は、ついに立てられなかった。 それでもこの年の年度代表馬には、五月を最後に一度も走っていないこの馬が選ばれている。記者投票百七十六票のうち百三十四票だった。

父の主戦が、仔の背に

次に走るまでに三百十五日かかった。そしてこの馬の背から、安田隆行が降りた。 理由は故障でも騎乗内容でもない。安田はこの頃、調教師試験に力を注いでいた。加えて陣営は将来の海外遠征を見ていた。1992年4月5日の産経大阪杯から、手綱は岡部幸雄に渡る。父シンボリルドルフの主戦が、仔の背に跨った。 大阪杯は、岡部が鞭を抜くことすらないまま終わった。ここまで七連勝。無敗のまま迎えた次が、天皇賞(春)である。 前年の覇者メジロマックイーンとの対戦は「世紀の対決」と呼ばれた。単勝はテイオーが一・五倍、マックイーンが二・二倍。三番人気のイブキマイカグラは十八倍を超えていた。二頭以外は、はじめから数に入っていない。テイオーは二千四百メートルより長い距離を走ったことがなかった。松元は自分たちが挑戦者だと言い、岡部は、一杯になる感じがなく地の果てまで走れそうだと評した。武豊は、あっちが地の果てならこっちは天まで昇ると返した。 京都の三千二百メートル。テイオーはマックイーンの右後ろ、四、五番手を追った。三コーナーでマックイーンが動くと、それに反応して差を詰めにいく。そこまでは注文どおりだった。直線で止まった。カミノクレッセ、イブキマイカグラ、ホワイトアローに次々かわされ、独走で逃げ切ったマックイーンから一秒七離された五着。デビューから初めての黒星だった。 松元は距離の壁としか言いようがないと述べ、岡部は、考えていたとおりの競馬はできたが直線半ばで一杯になった、と言った。十日後、右前脚の剥離骨折が見つかる。二度目である。診た獣医は、ダービーのときと同じく、走り出した直後に折れていたのではないかと見ていた。

もう終わった、と言われた秋

夏を二風谷で過ごし、九月に帰厩した。ところが調教を本格化させた矢先に三十八度を超える熱が出て、三日休んだ。仕上げの時間が足りない。復帰戦は前哨戦を挟まないまま、十一月一日の天皇賞(秋)になった。松元は背水の陣だと漏らしている。 それでも単勝二・四倍の一番人気だった。レースは前半の千メートルが五十七秒五という壊れた流れになる。メジロパーマーダイタクヘリオスが競り合い、その直後の三番手でテイオーは折り合いを欠いた。直線で止まり、先行勢はまとめて沈む。後方から来たレッツゴーターキンが勝ち、テイオーは七着。掲示板を外したのは初めてだった。 レース後、岡部は休み明け特有の精神面の不安定さが出たと言い、二度も骨折した馬に四歳の頃の脚を求めるのは酷かもしれない、と続けた。それから、談話を取りに来たアナウンサーに向かって、負けは負けだよ、と声を荒げた。もう終わった、二冠は相手が弱かったからだ。そう言われるようになった。 四週間後のジャパンカップは、その年から国際的な格付けのGIとして行われた。イギリスの二冠牝馬ユーザーフレンドリー、現役のイギリスダービー馬が二頭、豪州の年度代表馬レッツイロープ。レース史上最強のメンバーとも言われた。日本馬では最上位ながら、テイオーの単勝は十倍の五番人気。生涯でいちばん低い評価だった。 馬場は重。テイオーは四、五番手で運び、残り二百メートルで外へ出た。ナチュラリズムと並んだのが残り百五十メートル、抜け出したのが残り五十メートル。着差はクビ、時計は二分二十四秒六。日本馬のジャパンカップ制覇は、1984年のカツラギエース、1985年の父シンボリルドルフに続く三頭目で、七年ぶりだった。もう終わった、と言われた馬が、その年いちばん強い馬の集まったレースを勝った。 暮れの有馬記念は、ファン投票十七万票余りの一位で出走が決まった。ところが開催中に岡部が騎乗停止になる。松元はその日阪神にいた田原成貴に電話をかけ、当日の騎乗をその場で頼んだ。 一番人気。十一着。生涯で最も悪い着順だった。ゲートでトモを滑らせて腰の筋肉を痛めたのだと、のちに陣営は説明している。

空白の一年

1993年1月3日、左の中臀筋を痛めていたことがわかった。鹿児島の牧場へ送られ、体を立て直すために海岸で歩かされた。この頃、水面下では種牡馬入りの話が進んでいる。価格が折り合わず、現役続行が決まった。 三月に帰厩。宝塚記念を目標に整えられたが、その十日前、左前のトウ骨がまた剥がれた。三度目の骨折である。 十月に栗東へ戻ったとき、年内に間に合うレースはもう一つしか残っていなかった。松元によれば、この馬は一度使うと走りすぎてしまう。だから叩き台を挟むことが、かえってためらわれた。待つだけ待って、本番に出すことになった。 鞍上が決まらない。岡部幸雄は、その年の菊花賞を勝ったビワハヤヒデに乗ることがすでに決まっていた。内村の意向で武豊にも話が行ったが、武は自分のお手馬が出走しなければという条件をつけ、二冠牝馬ベガの参戦が決まって流れた。結局、前の年に一度だけ乗った田原成貴のところへ戻ってきた。 松元は、力を出せる状態にはある、アクシデントさえなければ勝ち負けになると言った。田原のほうは、順調に来ている馬が相手では苦しいかもしれない、と不安を口にしていた。

十三秒台の緩み

1993年12月26日、中山。晴れ、芝は良。十四頭のうち八頭がGIを勝っている。菊花賞馬ビワハヤヒデ、ジャパンカップを勝ったレガシーワールド、ダービー馬ウイニングチケット、天皇賞馬ライスシャワー、二冠牝馬ベガ、前年の覇者メジロパーマー。テイオーは四番目の人気だった。 ゲートが開く。逃げたのはメジロパーマービワハヤヒデは前から四番目につけた。テイオーは、後ろから数えたほうが早い位置にいる。一コーナーで八番手。二コーナーでも八番手。田原は、動かない。 中山の二千五百メートルは、外を回れば回るほど距離を損する。一年ぶりの馬にとって、早めに外へ出るのは分の悪い賭けである。それでも待ちすぎれば、坂の下で置いていかれる。 そこへ、流れの緩みが来た。刻まれた区間の時計が、この日はじめて十三秒台に落ちる。多くの馬が息を入れる区間である。田原はここを使った。二コーナーから三コーナーへ向かう長い向正面で、八番手は四番手になっていた。 この緩みは、二度と戻ってこなかった。区間の時計は十二秒台の前半から十一秒台へ、坂を下るように速くなっていく。一年ぶりの馬が、最も息の入らないところに顔を出した恰好である。 四コーナー、外。前ではビワハヤヒデが先に抜け出した。その年、一度も連対を外していない馬である。テイオーはその背中を追った。中山の坂を上りきったところで、二頭の差は半馬身になっていた。 この日テイオーが最後の六百メートルで使った脚は、レース全体の上がりより速い。前でずっと粘っていたビワハヤヒデより速い。一年走っていなかった馬が、最後の直線でいちばん新しい脚を持っていた。 検量室に戻った田原は、涙を隠さなかった。これは自分の勝利ではない、日本競馬の常識を覆したこの馬自身の勝利だから、彼を褒めてやってほしい——そう言った。テレビもラジオも、実況の言葉に「復活」を使った。 前の出走から三百六十四日。これより長い休み明けでGIを勝った馬は、いまも現れていない。

白に、青の山形一本輪

1994年も現役を続けた。目標は天皇賞(春)。復帰予定だった大阪杯を右トモの筋肉痛で回避し、宝塚記念に切り替えた四月十四日、前と同じ左前のトウ骨をまた折った。四度目である。八月二十七日、松元が引退を発表した。 十月二十三日、東京競馬場で引退式が行われた。その日のメインはオープン特別で、重賞は組まれていない。それなのに、重賞のあった前の週より一万人多い十万六千百七十九人が入場した。鞍上は田原、ゼッケンはダービーのときの「20」。式には、騎手を辞めて調教師へ転じていた安田隆行と、岡部幸雄が並んだ。当日のメインでは、皐月賞で二着に退けたシャコーグレイドが三年十か月ぶりに勝ち、はなむけだと話題になった。 翌年から種牡馬になる。あてがわれた馬房は、父のライバルだったミスターシービーが使っていた部屋で、隣にはメジロマックイーンがいた。産駒のトウカイポイントは2002年のマイルチャンピオンシップを勝ち、ヤマニンシュクルは阪神ジュベナイルフィリーズを勝っている。トウカイポイントの馬主も、やはり内村正則だった。2026年の中山記念を勝ったレーベンスティールは、母の父にこの馬を持つ。 安田隆行は1994年の二月に騎手を辞めていた。六度目の受験で調教師試験に受かったからである。開業十六年目にトランセンドでジャパンカップダートを勝ち、翌年はカレンチャングレープブランデーがGI級を勝った。やがてロードカナロアが出る。騎手と調教師の双方でJRA六百勝に届いたのは、中央競馬で彼が最初だった。2024年三月、定年で厩舎を畳む。最後の式は、落馬から立ち直った場所である小倉で行われた。 田原成貴は後年、自分が乗ったなかでこの馬がいちばん強かったと言い切っている。「おれの乗った馬のなかで、トウカイテイオーが一番強かったことは間違いないですね」[^1]。ただし、と田原は続けた。あのときのテイオーは何度かの故障を経て、すでに傷んでいた。骨折する前の、ダービーの頃の体で走らせてみたかった、と。 つまり、中山のあの坂を上がった馬は、もう完全な体を持っていなかった。だからあれは強さの証明ではない。強かった頃の体を失った馬が、それでも一度だけ、失う前と同じ場所へ戻ってみせた記録である。奇跡と呼ばれてきた理由は、そこにある。ファンが選んだこの馬のベストレースでも、1993年の有馬記念は四分の三の票を集めて一位だった。ダービーでもジャパンカップでもない。壊れたあとの一戦が選ばれている。 2013年8月30日、トウカイテイオーは社台スタリオンステーションの馬房で息を引き取った。二十五歳。四つの競馬場に献花台が置かれ、記帳は九月の終わりまで受け付けられた。勝ったGIは皐月賞、東京優駿、ジャパンカップ、有馬記念の四つ。どれも、父シンボリルドルフが勝ったレースだった。 二本目の指を立てた男は、それから十六年後、第一回のジョッキーマスターズにこの馬の勝負服で出走している。白に、青の山形一本輪、桃の袖。テイオーの背にはもう二度と乗れなかったが、その色だけは、もう一度着ることができた。

出典:Number Web「田原成貴「トウカイテイオーが一番強かった」「マヤノトップガンは振れ幅が…」有馬記念3勝の元祖天才が語る“難コースの攻略法”とは」2022年12月24日配信、https://number.bunshun.jp/articles/-/855958、閲覧日:2026年8月3日。

OFFSPRING

産駒 — 旅を継ぐ馬

ABOUT

このサイトについて

名馬ジャーニーとは

名馬ジャーニーは、競馬の名レースと、引退した馬たちのその後を記録する、個人運営のアーカイブサイトです。数分のレースだけでなく、馬がターフを去ってからの時間まで辿れることを大切にしています。JRAなどの競馬主催者・関連団体とは関係のない、一人の競馬好きが続けている場所です。

情報について

本サイトの競走馬プロフィールやレース記録は、報道記事やWikipediaなど、一般に公開されている情報をもとに、当サイトの言葉で整理・編集しています。各馬の歩みをたどる読み物には、参考にした記事の出典を末尾に記載し、引用は必要な範囲にとどめています。

競走成績などのデータは、Wikipediaを主として一般に公開されている情報を参考に、当サイトが独自に整理・編集したものです。JRAの公式サイトやJRA-VAN、netkeibaといった競馬情報サービスのデータベースを転載・複製したものではありません。個人が公開情報をもとにまとめたものであり、内容の正確性を保証するものではありません。

文章の制作には生成AIを活用し、運営者が確認のうえ公開しています。ただし個人による運営で、一部は自動的に更新されるため、誤りや古くなった情報が含まれている場合があります。誤りにお気づきの際は、お知らせいただけると幸いです。馬券の購入その他の判断は、JRA・各主催者の公式発表にもとづき、ご自身の責任で行ってください。

画像について

本サイトに掲載している競走馬のイラストなどの画像は、AIで生成したオリジナルのものです。実在する写真を複製・加工したものではありません。競走馬の毛色や特徴を完全に再現できるものではない点は、あらかじめご了承ください。なお、映像のサムネイルは、YouTube上の各動画のサムネイル画像を表示しています。

映像について

本サイトのレース映像は、競馬主催者などの公式チャンネルが公開し、埋め込みを許可している動画だけを、YouTubeの標準的な埋め込み機能でご紹介しています。権利者に無断で転載された映像は扱いません。牧場の映像も同じ仕組みで、牧場や、牧場を訪ねた方々が自身のチャンネルで公開している動画をご紹介しています。

動画は埋め込み先でもYouTube上で再生され、再生数・広告収益はすべて各チャンネルに帰属します。あわせて各チャンネルの登録ボタンを設け、ご覧になった方が配信元のチャンネルへ辿り着けるようにしています。本サイトが動画ファイルを保存・配信することはありません。

名レースの記憶を残し、馬たちの引退後まで辿るこのサイトが、その映像を遺してくださった各チャンネルと、新しい競馬ファンとの出会いに少しでも役立てば幸いです。

広告について

本サイトは、運営を続けるための費用にあてるため、競走馬プロフィールや成績表など、当サイトが制作したコンテンツが主体のページに広告を掲載することがあります。動画の視聴が主となる場面には広告を置きません。アフィリエイトリンクなどを掲載する場合は、広告であることがわかる表示を行います。

アクセス解析について

本サイトは、閲覧状況の把握と改善のため、Googleアナリティクスを利用しています。GoogleアナリティクスはCookieを用いてアクセス情報を収集しますが、個人を特定する情報は含まれません。仕組みの詳細はGoogleのポリシーと規約をご確認ください。Cookieは、お使いのブラウザの設定で無効にすることもできます。

免責事項

掲載内容には正確を期していますが、その正確性・完全性を保証するものではありません。本サイトの利用、およびリンク先の外部サイトの利用によって生じた損害について、運営者は責任を負いかねますので、あらかじめご了承ください。

お問い合わせ・権利者の方へ

掲載内容についてのお問い合わせ、誤りのご指摘、掲載をご希望されない場合の削除・修正のご依頼を承ります。権利者やご関係者の方からのお申し出には、内容を確認のうえ、速やかに対応いたします。お問い合わせ先は、準備が整い次第このページに掲載いたします。映像については、各チャンネル側の設定でも表示を停止いただけます。

DREAM

ドリームレース

歴代名馬のオールスターを、選んだ舞台で走らせる夢想レース