名馬の記憶を、
再生する。

年表ICHINEN-ISSO — 2400m

BOKUJŌ-CHŌ — HOKKAIDO

牧場帖

一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。
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トキノミノルのイメージビジュアル
トキノミノルTokino Minoru
Tokino Minoru

トキノミノル

通算成績10戦10勝

生年 1948(昭和23年)毛色 鹿毛

全成績

主要戦績(抜粋)・新しい順
トキノミノルの成績一覧
年月日着順レースコース人気騎手タイム映像
1 八大競走東京優駿(日本ダービー) 東京 芝2400 1人気 岩下密政 2:31.1
1 八大競走皐月賞 中山 芝2000 1人気 岩下密政 2:03.0
1 オープン 東京 芝1800 岩下密政
1 選抜ハンデキャップ 中山 芝1600 岩下密政
1 重賞朝日杯3歳ステークス 中山 芝1100 1人気 岩下密政 1:06.4
1 優勝戦 中山 芝1100 岩下密政
1 オープン 中山 芝1000 岩下密政
1 札幌ステークス 札幌 芝1200 岩下密政
1 オープン 札幌 芝1000 岩下密政
1 新馬 函館 芝800 岩下密政 0:48.1

血統

金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ
トキノミノルの血統表(左から親・祖父母)
セフトTheftテトラテマTetratema
ヴォルーズVoleuse
第二タイランツクヰンDaini Tyrant's Queenソルデニス
タイランツクヰンTyrant's Queen
STORY

旅程 — この馬の物語

10戦無敗のままダービーを制し、わずか17日後に急逝。『幻の馬』と呼ばれ、東京競馬場に像が立つ。

本桐牧場に、その年ただ一頭

1948年5月2日、北海道三石郡三石町(現在の日高郡新ひだか町)の本桐牧場に、鹿毛の牡馬が生まれた。当時この牧場には七頭の繁殖牝馬がいたが、その年に生まれた仔はこの一頭だけだった。遊び相手がいない。千葉から同い年の牡馬が一頭買われてきて、二頭は幼駒の時代をいっしょに過ごしている。 生産者の笠木政彦は、生まれたときから大きく逞しい仔だったと振り返っている。それでも買い手はつかなかった。父セフトはその頃のリーディングサイアーでありながら、日本では短距離向きの種牡馬と見られていた。兄や姉の成績も芳しくない。 血そのものは薄くない。母第二タイランツクヰンの母タイランツクヰンは、小岩井農場が輸入した基礎牝馬の一頭で、2000ギニーを勝ったセントルイスの姪にあたる。姉ダーリングの子孫からは、のちに八大競走を三つ勝つグリーングラスが出る。ただしそれは、ずっと先の話になる。 東京から訪ねてきた調教師の田中和一郎だけが、この仔の後躯の張りに惚れ込んだ。田中は自分の厩舎の馬主である大映社長・永田雅一に購買を勧める。永田は渋ったが、笠木からも説得され、その場で手付金五十万円を置いた。のちに残りを払い、締めて百万円で自分の馬にしている。 ところが永田は、買った馬に思い入れを見せなかった。競走に出られる齢になっても、名前を付けない。困った笠木が田中に相談し、やむなく血統名の「パーフェクト」のまま競走登録が行われた。名を持たないまま、その馬はデビューへ向かうことになる。

函館の八馬身

1950年7月23日、函館。デビュー戦は危うく流れかけている。二日前の発馬練習で気性の悪いところを見せ、全姉ダーリングにも発馬の難があったことから、主催者はもう一度練習をせよと命じ、いったんは出馬登録を拒んだ。有力馬主だった栗林友二の口利きで、ようやく走れることが決まる。三頭立ての二番人気。しかも発走の直前にまた暴れ、鞍上の岩下密政を振り落とした。 それが、走り出すと素直だった。すぐ先頭に立ち、道中でそのまま後続を離し、二着マツターホーンに八馬身をつけてゴールする。八百メートルを四十八秒一。日本レコードだった。上がり三ハロン(最後の六百メートル)の三十五秒〇も、当時としては驚異的な数字である。 その晩、田中から勝利の電話を受けた永田は、自分がその馬を買ったことを忘れていて、何だそれは、と聞き返したという。数日後に厩舎を訪れた永田は上機嫌で、田中と、挨拶に来ていた笠木を前に、君たちのお陰でダービーが取れる、と言った。そしてその場で改名を決める。トキノミノル。競馬に懸けた時が実る、という意味だと伝えられている。 「トキノ」は永田の思いつきではない。永田が敬っていた作家・菊池寛の冠名を借りたもので、ダービーを狙える期待馬にだけ使うと決めていた名である。 その三文字は、鞍上の岩下にとっても他人事ではなかった。山梨の農家の三男に生まれ、十九で上京して田中厩舎に入門した岩下が初めて大きな競走を勝ったのは、1940年、菊池寛の持ち馬トキノチカラでの帝室御賞典である。二年後に岩下が所帯を持ったとき、仲人を務めたのもその菊池寛だった。同じ冠名の馬が、十年を置いてもう一度、この男の前に現れたことになる。

三歳王者

以後、負けない。二戦目のオープンを勝ち、三戦目の札幌ステークスでは、そこまで三戦三勝だったトラツクオーに十馬身以上の差をつけてレコードで勝った。初めて関東へ移った四戦目、五戦目もレコード勝ちである。 十二月十日、中山。関東の三歳王者を決める朝日盃三歳ステークスで、この馬は初めて渋った馬場を経験した。問題にしなかった。二着イツセイに四馬身をつけ、六連勝でその座に就いた。 この日敗れたイツセイは、デビューから三連勝で乗り込んできた馬だった。イツセイにとっては、初めて他馬の背中を見た日である。そしてこの一頭は、以後トキノミノルの生涯につきまとうことになる。

五十九キロ

1951年の初戦は、中山の選抜ハンデキャップだった。斤量は一気に七キロ増えて五十九キロ。かねて膝に不安があり、陣営はそこも憂慮していた。 スタートから競りかけてきたトラツクオーを、逆に競り潰すようにして逃げ切る。イツセイに三馬身半、時計はまたレコードだった。 次は東京。田中厩舎の地元でありながら、この馬にとっては初めての左回りである。回れないのではないかという声もあったが、二馬身差で八連勝を果たした。

二分三秒〇

五月十三日、皐月賞。連勝の噂は、ふだん競馬を見ない人たちにまで届いていた。単勝の支持率は七割三分を超える。皐月賞史上もっとも高い数字で、二番目は半世紀以上あとのディープインパクトである。 レースはいつもどおりだった。逃げて、二馬身。異様なのは着差ではなく時計のほうで、二分三秒〇は、それまでのレースレコードを六秒一も縮めていた。芝二千メートルの日本レコードでもある。 二馬身という着差は、この馬の余力を表していない。ゴール前で岩下は、後ろを振り返るだけの余裕を持っていた。 岩下も永田も、クラシックを勝ったのはこれが初めてだった。田中にとっては皐月賞三勝目で、尾形藤吉、東原玉造と並ぶ当時の最多である。この厩舎はすでにクモハタでダービーを、セントライトで三冠を勝っていた。ひとつの厩舎から三頭の顕彰馬を出した唯一の例になるのだが、その三頭目は、このときまだ生きて走っていた。

調教手帳

勝った翌日、中山から厩舎へ帰ったトキノミノルは歩様がおかしかった。二十五日には右前脚に裂蹄が出る。 三十一日、ダービーへの最終追い切り。岩下は脚を思い、最後の六百メートルだけを通常どおり走らせて切り上げた。田中は激怒し、なぜ追わないのかと岩下を怒鳴りつけている。追い切りの内容はそのまま各紙に伝わり、状態を不安視する記事が並んだ。その翌日には、右前をかばい続けた左前脚の腱が腫れる。厩舎は総出で治療にあたった。 永田は出走の取りやめまで口にしていた。出れば一番人気になるのは分かっている、ファンに迷惑はかけられない、という理屈である。 それが、前日から良くなった。当日の朝には両前脚とも不安が消えている。出走は正式に決まった。それでも田中は調教手帳に「実に不安」と書き[^1]、永田のほうは、開催日の六月三日を足せば九、枠順も九、脚は苦、レースも苦になりそうだ、と縁起の悪い語呂を漏らしていた。蹄と蹄鉄のあいだにはフェルトが挟まれた。負担を少しでも軽くするためである。 当日、東京競馬場には七万人を超える人が集まり、競走の歴史で初めて内馬場が観戦のために開放された。競馬新聞は謄写版ではなく輪転機で刷られ、刷り上がるそばから売れていったと、記者の大島輝久が書き残している。この一戦は、NHKで初めて全国に中継された。 パドックのトキノミノルは、見るからに闘志にあふれていたという。勝算を問われた岩下は、二千メートルまでなら相手になる馬はいないと思う、ただ二千四百でどんな競馬になるかは分からない、最善を尽くすとだけ申し上げておく、と答えた。 不調が伝えられたぶん皐月賞よりは評価を落とした。それでも支持率は五割を超えていた。

出典:岩川隆『広く天下の優駿を求む』プレジデント社、1994年、260頁(ja.wikipedia.org/wiki/トキノミノル 経由で確認)、閲覧日:2026年8月3日。

怖くて行けなかった

発走で、行き脚がつかなかった。前に、馬がいる。 八番手、九番手。トキノミノルがそんな景色の中を走るのを、この日の観衆は初めて見た。ここまでこの馬は、ほとんど最初から先頭にいて、後続を離すか離さないかの違いしかなかった。前に馬がいるという経験そのものが、無かったのである。 岩下は動かない。一角、二角と、そのまま進む。向正面に入って、ようやく行き脚がついた。先行していた一頭、また一頭と交わしていく。最後の角へ差しかかるころには、もう前に馬はいなかった。 直線は、押し切るだけだった。二着はまたイツセイである。差は一馬身と少し。イツセイがこの馬にいちばん近づいた一戦だった。 なぜ控えたのか。のちに岩下はこう語っている。「脚が心配なければ楽に逃げ切る自信はあった。けど、この時は脚がもたないかもしれない、故障してしまうかも知れない、そう思うと怖くて行けなかった」[^1] 怖い、と言った男が、二千四百メートルを勝っていた。 ゴールのあと、凱旋してくる一頭に人が殺到して牧柵の埒が壊れた。記念撮影は、馬場になだれ込んだ人垣に囲まれたまま行われている。

出典:渡辺敬一郎『強すぎた名馬たち』講談社+α新書、2004年、126頁(ja.wikipedia.org/wiki/トキノミノル 経由で確認)、閲覧日:2026年8月3日。

六月二十日

1943年のクリフジ以来、史上二頭目となる無敗でのクラシック二冠だった。皐月賞と東京優駿の両方を無敗で勝ったのは、この馬が初めてである。勝ち時計は、そのクリフジのレースレコードを〇秒三縮めていた。秋の菊花賞を含めた三冠は確実と見られ、永田は記者に対し、三冠を獲ったら史上初のアメリカ遠征を行うと発表している。 ダービーから五日後の六月八日、厩務員の村田が田中に告げた。どうも元気がない、食欲もない。 競走後の数日は調教を休ませていた。特に悪化しているわけではない。ただ、日ごとに元気が失われ、曳き運動でも辛そうな様子を見せた。 十六日の午後、目が赤くなっているのが見つかる。結膜炎を疑って治療した。翌日には歩様がぎこちなくなり、目の充血が進み、瞬膜が飛び出した。強心剤と輸液。夕方にはさらに悪くなり、ここで破傷風が疑われる。永田と岩下が家畜衛生試験所の分室まで血清を受け取りに走り、帰厩後にペニシリンなどとともに投与された。 十八日、身体のあちこちが硬直した。接触と光と音に異常に敏感になる、破傷風そのものの症状である。厩務員の草刈りの音だけで全身が固まるまでになり、医師と厩務員以外の出入りは禁じられ、陽の光を避けて馬房は羽目板で閉め切られた。 十九日、症状が引く。食欲が少し戻った。二十日にはニンジンと青草を口にするまでになり、正午の診察では、急変には注意が要るものの快方に向かうだろうという見立てが立った。 その日の午後、容態が急変する。十八日と同じ全身硬直を、二度、三度と繰り返した。飲み下すことができず、痙攣を抑える薬を入れることさえできなくなる。午後六時四十分、全身の痙攣とともに倒れた。 永田は獣医と田中に頼み込んでいた。金は惜しむな、ダービーの賞金もみんな使え、競走生命はなくていい、命だけは助けてやってくれ、と。実際に薬へ投じられた費用は、ダービーの一着賞金に匹敵した、あるいは超えたと伝えられている。 その日、岩下は所用で外に出ていた。急変を知らされて厩舎へ戻る。「どうしたどうした」[^1]。声をかけられた直後、馬は目を閉じたという。午後十時三十四分、破傷風にともなう敗血症。ダービーから十七日が経っていた。 最期を看取った競馬記者の橋本邦治は、これがあのダービー馬かと目を疑いたくなるような寂しい姿だった、と回想している。 菌がどこから入ったのかは、はっきりしていない。五月二十五日の裂蹄が疑われたが、担当獣医の柴田直哉は、その患部に菌の浸食はさほど見られなかったとしている。のちに大川慶次郎は、ダービー当日の時点で生じていた裂蹄から入ったと推測した。元朝日新聞記者の遠山彰は、この死を病後の無理使いが招いた悲運だとし、そこまでの名馬なら、なぜダービー出走を断念しなかったのかと書いている。答えは出ていない。ただ、詳細に残されたこの馬の病状の記録は、のちの破傷風研究に役立てられた。

出典:岩川隆『広く天下の優駿を求む』プレジデント社、1994年、266頁(ja.wikipedia.org/wiki/トキノミノル 経由で確認)、閲覧日:2026年8月3日。

像の前で

死は一般紙にも載った。読売新聞は社会面のトップで報じている。 作家の吉屋信子が毎日新聞に追悼文を寄せた。「初出走以来10戦10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーに勝つために生まれてきた幻の馬だ」[^1]。以来、「幻の馬」がこの馬の二つ名になった。 厩舎で葬儀が行われ、遺体は東京競馬場の墓地へ運ばれた。隣には、同じく無敗でダービーを勝った直後に世を去ったガヴアナーが眠っていた。二頭は現在、正門前の馬霊塔に移されている。永田はその後、自分の持ち馬に「トキノ」の冠名を二度と使わなかった。 七月一日、東京。第一回の安田賞を、イツセイがレコードで勝った。朝日盃から数えて五度、この馬はトキノミノルの背中を見てきた。前を行く一頭が消えて、十一日後のことである。 岩下は走り続けた。1954年、大井から移ってきたゴールデンウエーブに初めて跨って東京優駿を勝ち、史上二人目のダービー二勝騎手になる。左へささる癖のあるその馬に、左利きで左鞭の巧い岩下が請われての騎乗だった。翌年にはヒロイチで優駿牝馬。1959年に鞍を降りて調教師になり、1972年、調教師会の会合からの帰り道に交通事故に遭って、五十八歳で世を去っている。 その岩下には、1951年の二月に生まれた長男がいた。名は「実」。皐月賞もダービーもまだ先の、六連勝しただけの馬にあやかって付けた名前である。馬は六月に消え、名前のほうは残った。 馬主に名を付けてもらえないまま登録された馬である。のちに与えられたその名は、いま、二月に東京競馬場で行われる共同通信杯の副称になっている。1966年にはブロンズ像がパドックの脇に立ち、いつのころからか、ファンはそこを待ち合わせ場所に使うようになった。1984年、中央競馬が顕彰馬の制度をつくったとき、その第一回で選ばれた一頭でもある。 ダービーの日、像の前には人が溜まる。名を呼び合い、新聞を広げ、また次のレースへ散っていく。そこに立つ人の多くは、この馬が走った時代を知らない。負けた姿を一度も見せずに消えた一頭は、七十年を越えて、府中でいちばん人の集まる場所になった。

出典:吉屋信子が『毎日新聞』に寄せた追悼文=山本一生『競馬学への招待 増補』平凡社ライブラリー、2005年、145頁ほか(ja.wikipedia.org/wiki/トキノミノル 経由で確認)、閲覧日:2026年8月3日。

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