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ウイニングチケット
通算成績14戦6勝
生年 1990(平成2年)毛色 黒鹿毛性 牡
全成績
主要戦績(抜粋)・新しい順| 年月日 | 着順 | レース | コース | 人気 | 騎手 | タイム | 映像 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 8 | GI天皇賞(秋) | 東京 芝2000 | 2人気 | 武豊 | 映像 | ||
| 2 | GIIIオールカマー | 中山 芝2200 | 武豊 | 映像 | |||
| 5 | GII高松宮杯 | 中京 芝2000 | 1人気 | 柴田善臣 | 映像 | ||
| 11 | GI有馬記念 | 中山 芝2500 | 3人気 | 柴田政人 | 映像 | ||
| 3 | GIジャパンカップ | 東京 芝2400 | 柴田政人 | 2:24.6 | 映像 | ||
| 3 | GI菊花賞 | 京都 芝3000 | 1人気 | 柴田政人 | 映像 | ||
| 1 | GII京都新聞杯 | 京都 芝2200 | 柴田政人 | 2:13.3 | — | ||
| 1 | GI東京優駿(日本ダービー) | 東京 芝2400 | 1人気 | 柴田政人 | 2:25.5 | 映像 | |
| 4 | GI皐月賞 | 中山 芝2000 | 1人気 | 柴田政人 | 2:00.7 | 映像 | |
| 1 | GII弥生賞 | 中山 芝2000 | 1人気 | 柴田政人 | 2:02.1 | — | |
| 1 | OPホープフルステークス | 中山 芝2000 | 1人気 | 柴田政人 | 2:02.3 | — | |
| 1 | 葉牡丹賞 | 中山 芝2000 | 田中勝春 | 2:02.1 | — | ||
| 1 | 新馬 | 函館 芝1700 | 1人気 | 横山典弘 | 1:48.8 | — | |
| 5 | 新馬 | 函館 芝1200 | 7人気 | 柴田政人 | 1:16.4 | — |
血統
金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ| 父トニービンTony Bin | カンパラKampala | カラムーンKalamoun |
| ステートペンションState Pension | ||
| セヴァーンブリッジSevern Bridge | ホーンビームHornbeam | |
| プリディフェアPriddy Fair | ||
| 母パワフルレディPowerful Lady | マルゼンスキーMaruzensky | ニジンスキーNijinsky |
| シルShill | ||
| ロッチテスコ | テスコボーイTesco Boy | |
| スターロッチStar Roch |
引退後・牧場での映像
ゴール板の先の時間旅程 — この馬の物語
名手・柴田政人の悲願を乗せて1993年日本ダービーを制覇。引退後は浦河の地で長い余生を過ごした。
跡取りのいない牧場
北海道静内の藤原牧場は、一頭の牝馬の名で知られていた。スターロッチ。一九六〇年に優駿牝馬と有馬記念を勝ち、繁殖に上がってからは静内じゅうに子孫を広げた牝馬である。牧場からは一九七七年の皐月賞馬ハードバージが出た。血の蔵のような場所だった。 だが当主の藤原祥三に男子はいなかった。跡継ぎがおらず、廃業がちらついていた。それを惜しんだ同じ静内の武岡敏夫が、祥三の娘に縁談を持ち込む。相手は静内で臨床獣医をしていた平野悟郎だった。一九八六年七月に二人は結ばれ、平野は婿に入って藤原姓になる。 悟郎はすぐに牧場へ入るつもりはなかった。よそから来た人間だから、一度距離を置こう。そう考えて夫婦で九州に身を置いた。ところが結婚から半年後の一九八七年三月十五日、祥三が脳梗塞で急死する。生産馬サクラスターオーが弥生賞を勝ち、皐月賞へ向かっていく途中のことだった。継ぐための知恵を何ひとつ受け取らないまま、二十八歳の獣医が牧場の主になった。 就任した直後、悟郎は生まれて初めて繁殖牝馬の交配相手を選んでいる。 その繁殖牝馬の一頭がパワフルレディだった。父はマルゼンスキー。競走馬にはならずに牧場へ戻り、仔を産み続けたが、生まれてくる仔は脚が曲がっていたり、尻尾がなかったりした。悟郎は原因を母の柔らかさに見ていた。体の柔らかい牝に柔らかい牡を付けると、仔がぐにゃぐにゃになる。だから硬くて薄い体つきの種牡馬が要る。 一九八九年、悟郎はパワフルレディの相手にトニービンを選んだ。前年の秋に凱旋門賞を勝ち、暮れのジャパンカップを最後に引退して、日本で種牡馬になったばかりの馬である。初年度の産駒がどう出るかを見きわめる材料は、まだ薄かった。それでも悟郎は、府中で実物を見たときに決めていたという。余計な肉のつかない体だ、あれは行ける——配合はまず体型から入る、牡と牝の体型を二で割ったような仔が生まれるものだから、と後年に語っている。
生まれて三日目
一九九〇年三月二十一日、藤原牧場でパワフルレディの六番仔が生まれた。黒鹿毛の牡。胴が長く、骨格は父トニービンに、顔つきは母の母の父テスコボーイに似ていた。 生まれて三日目、牧場に栗東の調教師・伊藤雄二が来る。伊藤はその場で入厩を決めた。どこがどうというのではなく第一印象が良かった、というのが本人の説明である。伊藤には、凱旋門賞を勝った種牡馬を高く買う癖があった。 買い手も伊藤が連れてきた。京都・東山で内科の医院を開く太田美實。馬主歴は二十五年を超えていたが、重賞に持ち馬を出したことは一度もない。伊藤の好みを知っている太田は、トニービンの仔なら買おう、と即答した。名を付けたのも太田である。当たり馬券は英語で何というのか。ウイニングチケット。夫人は、それは「勝利への切符」と訳してください、と笑ったという。 当歳の秋に種子骨炎で一か月半、厩舎から出られなくなった。治ってからは病気も怪我もしていない。牧場にいた頃は鹿のような馬で、細くて見栄えはしなかったと悟郎は言う。それが二歳の春から伸びた。送り出すときには自信があった。 栗東に入って翌日、この馬に跨った調教助手の笹田和秀が、ダービーで勝ち負けできると伊藤に進言する。伊藤はその場でダービーに勝てる馬が来たと口にし、美浦の柴田政人に騎乗を頼んだ。関西の厩舎が、わざわざ関東の男を呼んだのである。スターロッチの牝系には、柴田が何頭も乗っていた。 その夏の函館で、伊藤は本人に直接こう言っている。 「おい、政人、ダービー勝つ馬、乗せてやるぞ」[^1] このとき柴田はデビュー二十六年目。日本ダービーには十八回乗り、三着が二度あるだけだった。 一九九二年九月六日、函館の芝千二百メートル。七番人気で五着。レース後、柴田は伊藤に、この馬は長いほうがいいと伝えた。伊藤は翌週の芝千七百メートルに入れ直したが、海外へ発つ柴田は乗れず、横山典弘が一番人気に応えて初勝利を挙げる。 次の一戦も柴田には乗れない事情があった。先に決まっていた馬の調教師が、どうしても首を縦に振らなかったのである。義理を断れない男は、引き裂かれる思いで手綱を返した。十二月六日の中山、葉牡丹賞は田中勝春が乗り、九頭立ての最後方から三コーナーでまくって四馬身差で圧勝する。 ここで伊藤が動いた。次走に関西の条件のいいレースを選ばず、暮れの中山まで馬を運んだのだ。ホープフルステークス。柴田が乗り替わりやすいように、という一手だった。柴田は戻ってきて、一番人気に応え、三馬身差で三連勝を決めた。
出典:Number Web「「そっとしておいてくれ」レース直前に各社一斉の取材拒否も…名騎手・柴田政人とウイニングチケットはいかに日本ダービーを制したのか?」(text by 高川武将/初出『Number』978号)2022年5月25日配信、https://number.bunshun.jp/articles/-/853201 、閲覧日:2026年8月3日。
大外六番手から
明けて一九九三年。三月七日の弥生賞は一番人気に推された。伊藤の見立てでは、まだ八十五点の仕上げだったという。 スタートから最後方。三コーナーで外へ持ち出し、四コーナーは大外の六番手。そこから前を全部差し切って、二着ナリタタイシンに二馬身をつけた。中山の芝二千メートルは、これで三連勝である。追い込みひとつで重賞をさらったこの馬に、クラシックの主役の座が回ってきた。 四月十八日の皐月賞は単勝二・〇倍。二番人気は朝日杯三歳ステークス二着のビワハヤヒデで、二強と呼ばれた。三番人気にナリタタイシンが続く。 レースは向正面から位置を上げ、三コーナーでビワハヤヒデと合流して進出した。四コーナーは二番手集団。直線でしばらく二頭は横に並び、そこからウイニングチケットの脚色が鈍る。抜け出したビワハヤヒデを、後方外から来たナリタタイシンがクビ差で捉えた。ウイニングチケットは五位で入線し、前を走った一頭の降着によって四着に繰り上がった。 ビワハヤヒデ、ナリタタイシン、ウイニングチケット。頭文字を並べてBNWと呼ばれる三頭が、この日に揃った。 批判は柴田に向かった。弥生賞のように後ろから一気に行けばよかったのに、なぜ早めに動いたのか。そう指南する評論家までいた。柴田は黙っていた。レースのあと、ソエが出ていたことが分かる。乗り方ではなく、馬の状態だった。
一週間、黙る
ダービーまでの一週間、柴田は口を閉ざした。どんな取材にも快く応じることで知られた男が、各社の記者に自粛を申し入れたのである。自宅に電話をかけてくる記者にも断り続けた。そっとしておいてくれ、終わったら何でも話すから。そう頼んだ。これほど支持される馬でダービーに行けるのはきっと最後だろう、賭ける思いを先に吐き出したら何も残らない気がした、と後年に振り返っている。 一方で厩舎は取材に応じ、弥生賞のように後方で待つと述べていた。作戦は表に出ないまま、当日が来る。 伊藤の採点は上がっていた。弥生賞が八十五点、皐月賞が九十三点。最大の目標はダービーだと公言し、この馬は相手を見て走る馬ではない、前半は遊ばせて後半だけ競馬をする、それで持ち味が出ると語った。 出走は十八頭。三勝馬や重賞二着馬が除外されるほど、この年の出走ボーダーは高かった。単勝は三・六倍から四・〇倍のあいだに三頭がひしめいた。ウイニングチケット、ビワハヤヒデ、ナリタタイシンの順である。柴田がダービーで一番人気の馬に乗るのは、これが初めてだった。
一九九三年五月三十日、府中
府中に十七万人が入った。 ゲートが開く。柴田は迷わず内へ入れた。前には岡部幸雄のビワハヤヒデ。中団のやや後ろ、馬場のいちばん内側を進んだ。 この馬の難しさは折り合いにあった。前へ行きたがる。ハミを噛みすぎると終いが残らない。道中はハミをかけずにおいて、最後にかけ直したときに脚を使わせる。そういう手加減の要る馬だった。 二コーナーで、ふっとハミが抜けた。向正面に入ると、背中の下の馬はリラックスして走っていた。今日は行ける。柴田はそう思ったという。 逃げ馬がペースを上げる。三コーナーにさしかかり、残る馬がいっせいに動きはじめた。 四コーナーの出口。柴田の眼前に、ぽっかりと道が開く。 この道を通って行けということか。いや、早すぎるか。いや——。 「ここを行かなきゃ、また、俺の道がなくなる」[^1] 考えるより先に、鞭が出ていた。ぶるぶるっと寒気がした、と彼は言う。 直線。前を行く馬を捉える。坂を上るころ、進路を入れ替えるようにしてビワハヤヒデが馬体を並べてきた。残り百メートル付近では、その鼻が前に出た。大外からはナリタタイシンが猛烈な勢いで迫っている。 柴田は叫び続けた。頑張れ、頑張れ。あれほど大きな声を馬にかけたことはなかった、と後に語っている。 決勝線を最初に通過したのは、黒鹿毛だった。内のビワハヤヒデに半馬身。 引き上げてきた柴田の顔は、日焼けしているのに真っ白だった。
出典:Number Web「《人間で言えば100歳》ダービー馬・ウイニングチケット(31)が過ごす幸せな余生…主戦騎手の感謝「私に、ダービーを獲らせてくれるために」」(text by 高川武将/初出『Number』978号)2022年5月25日配信、https://number.bunshun.jp/articles/-/853204 、閲覧日:2026年8月3日。
世界中のホースマンに
十九回目のダービーだった。スタンドから「マサト」コールが起こり、ウイニングランのあいだ、それは地鳴りのように続いた。 勝利騎手インタビューで、誰にこの勝利を伝えたいかと問われる。柴田は、世界中のホースマンに、第六十回の日本ダービーを勝った柴田政人だと伝えたい、と答えた。海外で騎乗するたび、現地の記者にダービーは勝っているのかと聞かれてきた。競馬イコールダービーだと、向こうのホースマンは思っている。その恥ずかしさが、とっさに口をついたのだという。 悲願だったのは、柴田だけではない。 太田美實は、重賞に持ち馬を出したこともないまま、いきなりダービー馬のオーナーになった。 藤原牧場にとっては、祥三が生産したサクラスターオーが皐月賞を勝ちながら繋靭帯炎でダービーに出られなかった、その六年後の五月だった。 そして伊藤雄二にとっては、十六年越しの決着だった。一九七七年、伊藤はハードバージで皐月賞を勝ち、ダービーでは一度は勝ったと思いながらクビ差の二着に終わっている。そのハードバージの母ロッチと、ウイニングチケットの母の母ロッチテスコは、どちらもスターロッチの娘だった。同じ牝系で落としたダービーを、同じ牝系で取り返したことになる。 伊藤は、最大の勝因はマサが最高の騎乗をしてくれたことだ、と語った。柴田のほうは、弥生賞の直線一気が印象に残っているようだが本当は皐月賞のように中団から差すのがこの馬には一番合っている、四コーナーでも手応えは十分だった、と述べている。ダービーを意識しはじめたのは、暮れのホープフルステークスを勝ったときからだったという。 一番人気から三番人気までが一着から三着までを占めたダービーは、一九七二年以来二十一年ぶりだった。二分二十五秒五は、三年前にアイネスフウジンが出したレコードに〇秒二届かない、歴代二番目の決着だった。
三冠を分けた三頭
夏は社台ファームで過ごし、七月に栗東へ戻った。 秋の始動は十月十七日の京都新聞杯。後方の内を進み、最終コーナーで進路を失って最後方まで下がった。そこから内を突いて追い上げ、残り二百メートルで外へ持ち出す。ゴール手前でマイヨジョンヌをクビ差捉えた。重賞三勝目である。 十一月七日の菊花賞、京都の三千メートルを制したのはビワハヤヒデだった。五馬身半をつけられて三着。十一月二十八日のジャパンカップは、レガシーワールドから〇秒二差の三着。十二月二十六日の有馬記念は折り合いを欠いて十一着に沈み、勝ったのはトウカイテイオーだった。 皐月賞はナリタタイシン、東京優駿はウイニングチケット、菊花賞はビワハヤヒデ。一九九三年のクラシック三冠は、三頭がひとつずつ分け合った。
四月二十四日
一九九四年、笹針を打って休養に入った。 その春、四月二十四日の東京第六競走で、先頭を走っていたコクサイファーストがゴール前で脚を折る。柴田は頭から馬場に叩きつけられた。とっさに頭をかばった左腕の神経が裂け、頸髄も損傷した。八月には調教に乗れるところまで戻したが、握力が戻らない。もう柴田政人の競馬はファンに見せられない——九月六日、引退を表明した。 馬のほうは七月十日の高松宮杯から始動している。鞍上は柴田善臣。一番人気に推されたが、ナイスネイチャに一秒離された五着だった。 秋は武豊が乗った。九月十八日のオールカマーは、重馬場でビワハヤヒデの一馬身四分の三差の二着。皐月賞で先着を許した相手に、最後まで食い下がった。 そして十月三十日、天皇賞(秋)。八着。このレースの最中に屈腱炎を発症していたことが、後になって判明する。 同じレースを、ビワハヤヒデも走っていた。単勝一・五倍の一番人気で五着。引き上げてくる途中で岡部が下馬し、左前脚の屈腱炎と診断された。BNWの二頭が、同じ一戦で走り終えたのである。 一九九五年二月五日付で、ウイニングチケットの競走馬登録は抹消された。同じ月の二十六日、中山競馬場で柴田政人の引退式が行われている。
浦河
種牡馬になったのは、生まれ故郷の静内だった。初年度から七十頭以上の繁殖牝馬が集まり、四年目には百十七頭を数える。それでも中央の重賞を勝った産駒は、一九九九年のフェアリーステークスを勝ったベルグチケット一頭にとどまった。二〇〇三年にシンジケートが解散し、二〇〇五年の秋に種牡馬を退いている。 母のほうは、まだ仕事を残していた。ダービーの二か月前、一九九三年三月二十四日にパワフルレディが産んだ半弟は、父をサンデーサイレンスに替えて生まれている。ロイヤルタッチ。きさらぎ賞とラジオたんぱ杯三歳ステークスを勝ち、一九九六年の皐月賞と菊花賞で二着に入った。兄弟でのダービー制覇はならなかったが、悟郎が引き継いだ一頭の牝馬は、三年のあいだにクラシックを争う馬を二頭も送り出したことになる。 血は、娘たちが運んだ。産駒のオイスターチケットが産んだシェルズレイから、二〇一四年のホープフルステークスを勝つシャイニングレイと、二〇二一年の大阪杯を勝つレイパパレが出る。ウイニングチケットが三連勝を決めたのも、暮れの中山のホープフルステークスだった。 種牡馬を退いたあとは、浦河のうらかわ優駿ビレッジAERUへ移った。宿泊のできる牧場である。二〇一〇年七月、函館競馬場のパドックに、ダービーの日の馬服を着て立った。同じ日、隣にはビワハヤヒデがいた。十六年ぶりの顔合わせだった。放牧地にはニッポーテイオーやダイユウサク、ヒシマサルがいて、四頭で同じ草を食んだ時期もある。ヒシマサルとはとりわけ仲が良かったという。二頭を見送り、ヒシマサルが弱ってからは、高齢と怪我を避けるために一頭で放されるようになった。二〇二一年、存命のGI優勝馬でいちばん年長になった。 チケットの引退式で、柴田はこう言っている。 「この私に、ダービーを獲らせてくれるために生まれてきた馬だったような気がします」[^1] 最上級の賛辞である。ただ、その言い方は一頭の生涯を府中の二分半に縮めてしまう。切符を刷ったのは、この馬ではない。跡取りのいない牧場を継いだ二十八歳の獣医が、初めて自分で種牡馬を選んだ。生まれて三日目の仔を見て、その場で決めた調教師がいた。重賞に一度も馬を出せずにいた京都の医者が、父の名前だけを聞いて買うと答えた。義理を守り続けて強い馬に乗り損ねてきた男のために、その調教師はわざわざ関東まで馬を運び、手綱を返した。切符は何人もの手で刷られ、最後にあの一頭が改札を通ったのだ。 伊藤雄二は二〇二二年八月十七日、八十五歳で世を去った。その半年後の二〇二三年二月十八日、ウイニングチケットは疝痛のため浦河で息を引き取った。三十三歳だった。 府中の二分半のために生まれてきたと言われた馬は、そのあと三十年ちかくを生き、最後の日々を浦河の放牧地で過ごした。弁当を持ってきて、草を食むその姿を一日じゅう眺めて帰る夫婦がいたという。切符は一度しか使えない。だが渡された馬のほうは、改札を抜けたあとの長い時間を、浦河の草の上でずっと生きていた。
出典:Number Web「《人間で言えば100歳》ダービー馬・ウイニングチケット(31)が過ごす幸せな余生…主戦騎手の感謝「私に、ダービーを獲らせてくれるために」」(text by 高川武将/初出『Number』978号)2022年5月25日配信、https://number.bunshun.jp/articles/-/853204 、閲覧日:2026年8月3日。
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