名馬の記憶を、
再生する。

年表ICHINEN-ISSO — 2400m

BOKUJŌ-CHŌ — HOKKAIDO

牧場帖

一年ずつ、顔ぶれをたどる。引退した名馬たちの繋養・在籍と映像を綴る帳面。
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名馬録

この世代(生まれ年)

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ヤエノムテキのイメージビジュアル
ヤエノムテキYaeno Muteki
Yaeno Muteki

ヤエノムテキ

通算成績23戦8勝

獲得賞金51,830万円

生年月日 1985.04.11(昭和60年)毛色 栗毛

全成績

主要戦績(抜粋)・新しい順
ヤエノムテキの成績一覧
年月日着順レースコース人気騎手タイム上り3F映像
7 GI有馬記念 中山 芝2500 6人気 岡部幸雄 2:34.7 上り35.6映像
6 GIジャパンカップ 東京 芝2400 8人気 岡部幸雄 2:23.8 上り35.4映像
1 GI天皇賞(秋) 東京 芝2000 3人気 岡部幸雄 1:58.2 上り35.7映像
3 GI宝塚記念 阪神 芝2200 4人気 岡部幸雄 2:14.7 上り49.6映像
2 GI安田記念 東京 芝1600 4人気 岡部幸雄 1:32.7 上り35.0映像
3 GII産經大阪杯 阪神 芝2000 4人気 西浦勝一 2:03.1 上り49.5
3 GII読売マイラーズカップ 阪神 芝1600 1人気 西浦勝一 1:36.8 上り48.8
2 GII日経新春杯 京都 芝2200 1人気 西浦勝一 2:15.1 上り47.7
6 GI有馬記念 中山 芝2500 8人気 西浦勝一 2:33.0 上り36.4映像
4 GI天皇賞(秋) 東京 芝2000 6人気 西浦勝一 1:59.5 上り46.5映像
7 GI宝塚記念 阪神 芝2200 1人気 西浦勝一 2:15.6 上り49.9映像
1 GII産經大阪杯 阪神 芝2000 1人気 西浦勝一 2:01.4 上り48.4
2 GII日経新春杯 京都 芝2200 1人気 西浦勝一 2:14.5 上り47.7
1 GII鳴尾記念 阪神 芝2500 1人気 西浦勝一 2:33.1 上り47.2
10 GI菊花賞 京都 芝3000 1人気 西浦勝一 3:08.8 上り49.1映像
1 GII京都新聞杯 京都 芝2200 1人気 西浦勝一 2:14.5 上り48.3
1 OPUHB杯 函館 芝1800 1人気 西浦勝一 1:49.4 上り36.5
2 GIII中日スポーツ賞4歳S 中京 芝1800 1人気 西浦勝一 1:49.0 上り34.5
4 GI東京優駿 東京 芝2400 2人気 西浦勝一 2:26.9 上り48.2映像
1 GI皐月賞 東京 芝2000 9人気 西浦勝一 2:01.3 上り48.1映像
4 GIII毎日杯 阪神 芝2000 4人気 西浦勝一 2:05.5 上り51.5
1 沈丁花賞 中京 ダ1700 1人気 西浦勝一 1:48.1 上り39.4
1 4歳新馬 阪神 ダ1700 2人気 西浦勝一 1:49.6 上り51.8

血統

金色の名は 名馬ジャーニー に掲載 — その馬のページへ
ヤエノムテキの血統表(左から親・祖父母・曽祖父母)
ヤマニンスキーNijinskyNorthern Dancer
Flaming Page
アンメンシヨナブルUnmentionableBuckpasser
Petticoat
ツルミスターイエローゴッドRed God
Sally Deans
フジコウソロナウェー
ハマミドリ
STORY

旅程 — この馬の物語

1985年生まれの栗毛の牡馬。父ヤマニンスキー、母ツルミスター。主な勝ち鞍は皐月賞・天皇賞(秋)・京都新聞杯。

乗馬になるはずだった母

北海道浦河の宮村牧場は、繁殖牝馬を六頭しか置かない小さな牧場だった。開場のときに連れ出した一頭から、フジサカエ、ハマミドリ、フジコウと血をつないでいる。なかでもフジコウは、宮村岩雄が「カマド馬」と呼ぶほど牧場の食い扶持を支えた牝馬だった。1980年、そのフジコウがイエローゴッドとの間に産んだのがツルミスターである。 ツルミスターは抽せん馬として栗東の荻野光男厩舎に入り、球節を痛めて三戦、勝てないまま終わった。荻野は乗馬か使役馬に回すつもりでいた。考えを変えたのは、血統表を見直したときである。父イエローゴッド、母の父ソロナウェー、母の母の父トサミドリ。三代続けて、日本ダービー馬の父になった種牡馬が並んでいた。荻野は馬主を説き伏せ、この牝馬を繁殖に上げて宮村牧場へ返した。 初年度の相手はヤマニンスキーになった。父ニジンスキー、母の父バックパサー。マルゼンスキーとまったく同じ組み合わせを持ちながら、持込馬ゆえにクラシックには出られず、条件戦を勝つにとどまって種牡馬になった馬である。荻野はのちに、自分の気に入ったもの同士を一緒にさせたようなものだ、と語っている。 1985年4月11日、ツルミスターの初仔が生まれた。栗毛の牡。額に流星が流れ、四本の脚に白い靴下をはいていた。四白流星の美男子と呼ばれるのは、ずっと後の話である。当座の評判は良くない。放牧地では他の仔に相撲をふっかけて回り、隔離して放すほかなかった。 この年を最後に、祖母フジコウは仔を産まなくなる。六頭しか繁殖を置けない牧場に、用途のない馬を飼う余裕はない。宮村は家族に、年寄りの最後の我儘だから自分の目の黒いうちは処分は許してくれ、と頼んで残した。フジコウの血はもう時代遅れだと言われ、固執を侮蔑されたこともあったという。 荻野は、馬主歴三十年を超える大池正夫に声をかけた。大池は一千三百万円で買い、有限会社富士の名義になる。冠名「ヤエノ」に「ムテキ」が足された。同じ厩舎の同じ馬主には、三千万円で買われたトウショウボーイ産駒のヤエノダイヤがいて、期待は明らかにそちらへ向いていた。 三歳の夏に函館でデビューさせる予定は、腰の弱さと前脚の骨瘤で流れた。獣医は、普通に走るのも難しいかもしれない、と言ったという。気が荒く乗り心地も悪い馬を進んで担当したがる者はおらず、しょうがないから、という理由で荻野の長男・功が引き受けた。

二分の一の抽選

1988年2月27日、阪神のダート1700メートル。西浦勝一を背に三番手から抜け出し、メジロマーシャスに七馬身の差をつけた。三週間後の沈丁花賞も、二番手から抜け出して大差。ダートで二つ、どちらも突き放しての勝ち方だった。 陣営の目は芝のクラシックへ向く。狙いは五月の東京優駿で、そのために連闘を課した。沈丁花賞の一週間後、初めての芝となる毎日杯。重馬場で後方からになり、三角から外を上がったものの、先に抜け出したファンドリデクターと、後ろから来たオグリキャップに屈して四着。賞金は足りなかった。 その春の皐月賞は、有力馬が次々に消えていった。「テンポイントの再来」とまで言われたサッカーボーイは飛節炎で断念、共同通信杯でサクラチヨノオーを負かしたミュゲロワイヤルも回避。四百万円以下を勝ったにすぎない馬にまで、順番が回ってくる。ヤエノムテキは出走馬決定順の十六位に六頭で並び、三頭が出られる抽選を引き当てた。 四月十七日、東京競馬場。中山が改修中で、皐月賞は府中の芝2000メートルに移されていた。この舞台で行われるのは、1976年にトウショウボーイが勝って以来、十二年ぶりである。スタートから最初のコーナーまでが短く、外枠は不利とされるコース。抽選を通ったヤエノムテキに与えられた枠は、一枠一番だった。荻野は、ヤエノダイヤがベンツならこちらはダンプカーだ、東京の長い直線が向いている、という意味のことを言っていたという。 単勝二十五・二倍、九番人気。芝はまだ未勝利だった。 好発から、逃げる二頭とサクラチヨノオーに先を譲り、最内の四番手に収まる。前半1000メートルは五十九秒八の平均ペース。四角でサクラチヨノオーが先に動き、トウショウマリオが続いても、西浦は動かなかった。仕掛けをひと呼吸遅らせ、坂の手前で逃げ馬を安全にかわしてから、内を突いて抜け出す。大外からディクターランドが伸びてきたが、届かない。四分の三馬身。 二分一秒三は、府中で行われた皐月賞としては最も速かった。十二年前のトウショウボーイの記録を〇秒三上回っている。芝で初めて勝ったレースが、クラシックだった。西浦にとっても荻野にとってもクラシック初制覇であり、三十年以上馬を持ち続けた大池には、これが初めての重賞。父ヤマニンスキーにとっても、産駒の初重賞制覇だった。 生産者の宮村は、府中にいなかった。種付けの時期であり、みじめな負け方を見に行っても仕方がない、と誘いを断っている。代わりに、同じ浦河の鮫川牧場の場主へ、万一のときは表彰式に出てくれと頼んでいた。表彰台に立ったのは、その鮫川である。

票は、一つも入らなかった

皐月賞のあと、評価は跳ね上がった。荻野は取材に追われて円形脱毛症になったという。東京優駿は二番人気。一番人気は、皐月賞を使えなかったサッカーボーイだった。 二角で他馬に押し込まれて中団の後ろに下がり、三角から外へ持ち出して押し上げる。先頭を窺うサクラチヨノオーを視界に入れて直線を向いたが、そこからの伸びが皐月賞とは違った。サクラチヨノオーメジロアルダン、コクサイトリプルの三頭が横一線で叩き合うのを、加われないまま見送っての四着である。 放牧には出さなかった。七月の中日スポーツ賞4歳ステークスは、クラシック優勝馬が夏の中京に現れた初めての例になる。二キロ重い斤量でサッカーボーイと再戦し、遅い流れの二番手から手応え十分に抜け出したところを、大外から差し切られた。半馬身。 秋は函館のUHB杯を勝ち、京都新聞杯も勝った。どちらも一枠一番である。菊花賞は二・一倍の一番人気で、六番手から直線を向き、そこから伸びなかった。終始マークしていたスーパークリークに突き放され、一秒五差の十着。二桁着順は初めてだった。 荻野は敗因を三千メートルという距離に置き、十二月の鳴尾記念で二千五百メートルを試す。格の下がるハンデ戦で、四歳ながら五十八キロのトップハンデ。早めに抜け出したところをハツシバエースに並ばれて写真判定になり、決勝線ではハナだけ先にいた。 年末のJRA賞、最優秀四歳牡馬は百七十二票のうち百七十票がオグリキャップに入った。残る二票はサクラチヨノオー。その年の皐月賞馬の名前を書いた選考委員は、一人もいなかった。

一年半

1989年は日経新春杯の二着から始まり、産経大阪杯を三馬身半差で勝った。中距離ならこの馬だ、と言えるだけの内容だった。そこへ六月の宝塚記念が来る。GIを勝った馬が七頭も揃った一戦で、ヤエノムテキは一番人気に推された。ところがこの日は、前へ行こうとする気配がまるでない。好位につけるはずが最後方になり、そのまま七着に終わった。 夏は函館で過ごした。温泉に入れたところ緩みすぎ、仕上げが遅れる。毎日王冠を使えないまま、ぶっつけで天皇賞(秋)へ向かった。オグリキャップスーパークリークイナリワンメジロアルダン。「四強」と呼ばれた馬たちの外側で、六番人気。好位から直線で先頭に立ちはしたが、そこから伸びず、三頭に呑み込まれて四着だった。暮れの有馬記念は、また最後方からになって六着。 その年の大晦日に、大池正夫が死んだ。皐月賞で初めての重賞を手にしてから、一年八か月しか経っていない。 明けて1990年、斤量は六十キロまで積まれた。その六十キロで日経新春杯は二着、マイラーズカップは三着。産経大阪杯も三着。勝てないまま、五月が来た。 そこで荻野は鞍上を替えた。西浦に非があったわけではない。ただ、いつか岡部幸雄の手綱で走らせてみたい、という願いが陣営にあった。長男の功はアメリカ研修中、シンボリルドルフの遠征に帯同していた岡部と面識を得ている。栗東から美浦の岡部へ依頼を出したのが二週間前、返事が来たのが一週間前だった。 コンビの初戦、安田記念は、オグリキャップの半年ぶりの復帰戦でもあった。ヤエノムテキは四番手でオグリキャップの背中を取り、直線で一馬身まで詰める。そこから先がなかった。レコードで押し切られて二馬身差。それでもオサイチジョージとの二着争いはクビ差で制している。六月の宝塚記念は、オグリキャップをマークした二頭がともに伸びず、開き直って先行したオサイチジョージに押し切られた。オグリキャップが二着、ヤエノムテキは半馬身差の三着。 前年四月の産経大阪杯から、一年半、勝てていなかった。

府中、一分五十八秒二

イナリワンスーパークリークは、その秋を前に故障を抱えて引退へ向かった。三強のうち残った一頭に、支持は集まるだけ集まった。 荻野が二つ目のGIを欲したのは、種牡馬としての将来のためでもある。皐月賞だけの馬では足りない。舞台は、皐月賞と同じ府中の二千メートルだった。この馬には調教で手を抜く癖があったが、この秋ばかりは妥協させなかった。東上する馬運車には、荻野と、長男の功と、厩務員の三人が乗り込んだ。運転手のほかに三人が同乗するのは、異例のことである。 好発を切って、外の馬が前へ出ていくのを内側から見送る。内の四、五番手。前ではロングニュートリノにラッキーゲランが絡み、1000メートル通過は五十八秒二。速い。速すぎる流れは、後ろで脚を溜める馬に味方する。案の定、後方の馬たちが外から動きはじめ、オグリキャップも外へ持ち出した。 ヤエノムテキだけが、ラチから離れなかった。三角から四角、外の馬が余分な距離を走っているあいだ、この馬は最短距離を回って直線を向く。 そして、坂の下で動いた。周りはまだ脚を溜めている時間だった。前が塞がってからでは遅い。横一線になりかけた馬群の、いちばん内側から抜け出す。外から来ていたオグリキャップを、そこで置き去りにした。 早く動いたぶんの代償は、最後の百メートルに来る。脚色が鈍った。同じように内にこだわり、後ろから追ってきたメジロアルダンが、ゴール前で首を並べてくる。それでも、先に鼻を出したのはヤエノムテキだった。アタマ差。 一分五十八秒二。四年前にサクラユタカオーが刻んだ府中二千メートルの記録が、この日書き換えられた。岡部は、春に二度オグリキャップに負けているから大一番で勝ててうれしい、と言っている。

自分で自分の引退式を

表彰台には二人が立った。一人は大池俊江夫人である。夫が死んで十か月が経っていた。これが一年早ければ、と夫人は涙を浮かべて記者に答えた。 もう一人は宮村岩雄だった。皐月賞の表彰式に代役を立てて以来、宮村は応援に出向くようになったが、行けば負けた。この日も、負けると年寄りには寒さが身にしみる、という理由で家にいるつもりでいる。前日の土曜の午後、二度目の代役を嫌がった鮫川に促されて、府中まで出てきていた。 十一月のジャパンカップは六着。ベタールースンアップたちの叩き合いには加われなかった。そして十二月二十三日の有馬記念が、あらかじめ引退レースと決められていた。 引退式は行わないことになっていた。気性が荒く、式の途中で何が起きるか分からないからである。その代わりに荻野が用意した最後の披露が、この有馬記念だった。ところが当日、本馬場に入った直後、ヤエノムテキは岡部を振り落として放馬してしまう。捕まえてみると異状はなく、そのまま出走した。同じ日に引退したオグリキャップが復活の一着を飾り、ヤエノムテキは七着で現役を終える。 あの放馬は、のちに、自分で自分の引退式をやったのだと言われるようになった。 その年のJRA賞では、最優秀父内国産馬に選ばれている。首位で票を集めながら過半数に届かず、選考委員会の話し合いを経ての受賞だった。

無敵という名の馬に残ったもの

荻野が二つ目のタイトルを欲した理由は、種牡馬としての将来だった。府中の天皇賞は、その理由をすべて満たしたはずだった。 引退後、一株一千万円・全五十株、総額五億円のシンジケートが組まれ、新冠で種牡馬生活が始まる。最初の五年は年に五十頭ほどの繁殖牝馬が集まった。六年目に半減し、その年のうちにシンジケートは解散する。少人数で組み直したものも四年で解けた。産駒で名を残したのはムテキボーイくらいで、南関東の東京湾カップとテレビ埼玉杯を勝っている。2003年を最後に、種付けの相手はいなくなった。 府中で獲ったタイトルは、結局この馬に、種牡馬としての未来を買ってやらなかった。代わりに買ったものがある。ファンが「ヤエノムテキ会」を作り、会員が飼い葉代を出し合った。日高スタリオンステーションで、種牡馬でも競走馬でもなくなった馬が、そのまま暮らし続けた。種牡馬登録が消えたのは2010年、腸閉塞で息を引き取ったのは2014年3月28日、二十九歳のときである。 皐月賞でクラシックを初めて勝った西浦勝一は、のちに調教師へ転じた。テイエムオーシャンとカワカミプリンセスの二頭で牝馬三冠を分けて達成し、ホッコータルマエでダートのGI級競走も勝って、2021年に定年で厩舎を閉じている。 無敵という名は、この馬には少し大きすぎたのだと思う。二十三回走って、勝ったのは八回。三強と呼ばれた馬たちの隣で、たいていは数え落とされる側にいた。それでも、乗馬になるはずだった母を繁殖に上げた男がいて、時代遅れと言われた牝系を守り通した老人がいて、種付けの終わった馬に飼い葉を買い続けた人たちがいた。 二十三戦を走り終えたあと、この馬はもう二十三年を生きた。その二十三年ぶんの飼い葉を、走らなくなった馬のために、誰かがずっと払っていたのである。

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